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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2019年
10月07日
20:54

魔窟アーカイブ:三式中戦車の武装はパクリ?

・・すみません。また出かけます。

 三式中戦車チヌは、日本陸軍が量産した最後の中戦車で、その火力は距離六○○mで米軍のM-4シャーマン戦車の正面装甲を貫通可能でした(シャーマン七五mm砲型は一三○○mでチヌを撃破可能)。既存の技術の寄せ集めで、本土決戦に間に合った戦車です。

 基本的に九七式中戦車チハ系統の最終的発展型です。その開発着手は中戦車をあらわす「チ」とイロハ順の「ヌ」の組み合わせから分かるように、四式中戦車チト、五式中戦車チリより遅かったのです。にもかかわらず、昭和十九年後半に戦力化された三式チヌは、実用化の遅れた四式チト、五式チリをさしおいて量産され、終戦時には本土決戦における日本戦車戦力の基幹をなすまでになっていました。

 火砲は三八口径七五mm砲となる三式七糎半戦車砲です。使用弾種は機動九○式野砲と同じで、対戦車戦闘の場合は重量六・六kgの九五式破甲榴弾(貫徹後に炸裂する徹甲榴弾)を初速六六八m/秒で撃ち出します。
 一式徹甲弾を撃った場合、射距離五○○mで直立鋼板に対し九○mm、一○○○mで六五mmの装甲貫徹力を持ちます。砲口エネルギーの値で比べるなら、米軍のM-4シャーマン戦車七五mm砲型のM3、ソ連軍のT-34戦車76型に搭載されたF-34よりも威力が六~一三%大きい砲と位置付けられます。

 昭和十八年中期、三式中戦車の設計試作が開始されました。陸軍技術本部の初期計画では、戦車砲として九五式野砲を改修して載せる計画でした。この砲は支那事変やノモンハン事件でも砲兵部隊の主力野砲として活躍し、特にノモンハン戦ではソ連のBT戦車と戦い、対戦車砲として充分威力を発揮したのです。
 また他の火砲より軽量という点が技術関係の目を引きました。こうしてこの砲は、戦車に搭載できるように改良され、「九五式野砲改」となって、一式中戦車の車体内に収まり、試製戦車となって射撃テストや火砲の操作テストが続けられました。しかしながら試験の結果、九五式野砲改は初速が遅く、期待したほどの性能を発揮できませんでした。

 このため、九五式野砲改を搭載する案は中止となり、これとほぼ同じスペースに収まる火砲として九○式野砲に関係者の目が向けられました。
 こちらの砲は昭和初期、近代的火砲を求めて海外へ調査団を送っていた時に、ちょうどフランスのシュナイダー社が開発した開脚式火砲に目を見張りました。ですが、シュナイダー社はこの火砲は開発したばかりであるし、日本はサンプルだけ買って、生産は自国で行なうので多量の注文は望めないなどの評判を聞いていたのでなかなか火砲を売ってくれませんでした(実際、日本はこの火砲を無断コピーしました)。

 この火砲の特徴は砲身と砲架に画期的な工夫がこらされていて、砲身は単肉砲身で、オート・フレタージュ(自緊)方式で造られていたため製造は容易で、素材を節約できるという利点がありました。
 さらに駐退複座器が改良されていて、砲架の受ける反動吸収が容易で安定性に優れ、その上、開脚式で、従来の日本の火砲よりも方向射角が大きく操作がずっと容易でした。
 また砲口についた砲口制退器の作用で、発射ガスが砲身をブレーキする役目もありましたが、一方ではガスが後方に拡散し、砲手に少なからず影響を与えるという問題もありました。

 この砲は数々の実用試験を行なった結果、対戦車戦闘にも充分耐えうるものと評価され、「三式七半戦車砲Ⅱ型」として採用されました。砲口制退器の発射ガスも砲塔内に収まればその影響を受けることもありませんでした。しかし砲の撃発が引金(引鉄)やボタンではなく、野砲同様に拉縄(「りゅうじょう」、「らじょう」と読まれる)というひもを引っ張ることが欠点でした。
 この撃発方式の問題点は、発砲が二名に分担されたことでして、微妙なタイミングがつかめませんでした。
 このため五名運用の場合、無線手を撃発手にあてることが想定されていて、さらに車長が撃発手を兼ねる場合も考慮して、撃発手が操作しやすいように拉縄を短くすることは禁止されていました。