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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : 三國志

2019年
03月18日
20:47

呉の滅亡(その14)

 279年の夏、晋にとって呉侵攻のための絶好の機会が到来しました。それが広州において発生した郭馬の反乱です。
 郭馬は合浦太守 脩允の世襲兵の指揮官でした。脩允が278年に新任地の桂林におもむく前に病死すると、彼の軍隊は分割されて他の軍に配備されることになりました。先に桂林に行き原住民の鎮圧にあたっていた郭馬の部隊は先祖から同じ軍にいたので分割されるのを不満に思い、同僚の何典、王族、呉述、殷興とともに反乱を計画しました。その頃、呉帝 孫晧が広州の戸籍を調査し課税を強化しようとしていたのを利用して、郭馬は軍や民衆の間に不安を広げ、兵隊を集めました。まず広州督の虞授を攻めて殺し、反乱を開始しました。勝利を得た郭馬は都督交広二州諸軍事・安南将軍を、殷興は広州刺史、呉述は南海太守を自称しました。さらに何典は蒼梧郡へ、王族は始興郡へと進撃を開始しました。
 8月、孫晧は郭馬の反乱に対して本格的な鎮圧作戦を開始しています。まず滕循を鎮南将軍・仮節領広州牧に任命し、兵1万を率いて、予章より南下し、始興(広東省韶関市)で王族と対峙させています。この間に郭馬は南海太守 劉略を殺し、広州刺史 徐旗を駆逐していました。孫晧はさらに徐陵督 陶濬に兵7千を率いて湘水を南下させ、交州刺史 陶璜(陶濬の兄)に直属の兵(7千)と合浦、鬱林郡の兵を率いて北上させ、3方向より郭馬を攻撃して鎮圧することにしました。
 呉の戦力の多くが郭馬の反乱を鎮圧するために南に向けられているこの好機を、晋は見逃してはいません。279年11月、晋の武帝、司馬炎は羊祜の計画通りの大規模な侵攻を開始しました。
(つづく)

コメント

2019年
03月18日
21:12

1: RSC

この時に堂々と内乱を起こす辺りがもうギリギリの国という感じです。

2019年
03月18日
21:28

2: U96

>RSCさん
呉では将軍が兵を相続するので結束が強かったのですが、分割されるとなると、結束も空中分解です。

2019年
03月19日
20:02

3: CAOCAO

漢が諸侯の力を削ごうとして起きた、呉楚七国の乱を思い出しました

その漢は統一国家だったので乱を鎮圧できましたが、すぐ隣に晋という強大な敵国がいる呉がこのタイミングで勢力の分割をするのは自殺行為ですね

2019年
03月19日
21:43

4: U96

>CAOCAOさん
はい。晋は実に7カ所で攻撃、しかも長江を下ってきます。