これまでと同じように晋軍の侵攻は簡単に決定したわけではありません。前線にあって侵攻の好機をうかがっていた杜預や王濬は、侵攻の開始をうながす意見を提出したものの、政府の中央では実力者である太尉 賈充らを中心とした根強い反対論が大勢を占め、晋帝 司馬炎が征服論者である他は、わずかに中書令の張華だけが征服論者でした。しかし今回の最終的な判断は司馬炎の決断に委ねられました。279年11月、司馬炎は賈充らの意見を斥け、羊祜の立てた作戦に従って、以下の配置と作戦目標をとって、呉への侵攻作戦の開始を決定しました。
1、鎮軍将軍・琅邪王 司馬伷は下邳より徐州の諸軍を率いて涂中(安徽省全椒)へ進撃。推定兵力4万
2、安東将軍 王渾、揚州刺史 周浚は寿春より揚州の諸軍を率いて横江(安徽省馬鞍山市)へ進撃。推定兵力5万
3、建威将軍・予州刺史 王戎は予州(河南省正陽東北)より予州の諸軍を率いて武昌(湖北省鄂城市)へ進撃。推定兵力3万
4、平南将軍 胡奮は荊州(河南省新野)より荊州の諸軍の一部を率いて夏口(湖北省武漢市)へ進撃。推定兵力2万
5、鎮南大将軍 杜預は襄陽より荊州の諸軍を率いて江陵へ進撃。推定兵力6万
6、龍驤将軍・監梁益諸軍事 王濬、巴東監軍・広武将軍 唐彬は成都(四川省成都市)より梁、益州の諸軍と艦隊を率いて長江を東進。推定兵力4万
7、太尉 賈充を大都督、行冠軍将軍 楊済を副として、襄陽において全軍を統轄させる。
8、中書令 張華を度支候尚書とし補給を担当させ、全体の作戦計画の決定に参画させる。
(つづく)