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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2019年
02月11日
20:40

岩崎城と長久手の戦い(その9)

 丹羽氏重にしてみれば、こんな愚かな行動を敵が取るとは思ってもみなかったでしょう。池田恒興が多少でも戦略が分かる人物であったならば、城方が抵抗したという形を整える為に届かない遠鉄砲を撃ちかけてきた事情を察し、知らぬ顔で通過して拳母方面に進んでいたでしょう。それが戦いの呼吸というものであったし、徳川方が追撃の態勢に入る前に三河へ攻め込む以外にこの作戦の成功はあり得なかったから一刻を争って急行軍をしたはずです。
 ここで岩崎城を攻めたというのは、自分が提案した戦略の意義を自分自身が分かっていなかったということであり、大将としては余りにもお粗末すぎる。この程度の人物だったからこそ、織田信長は乳兄弟であったにもかかわらず、恒興に大封を与えなかったのでしょう。
 岩崎城はあっという間に落ちました。小牧へ伝令として走った者以外全滅したといわれます。急遽城へ入った農民も全員殺された訳であり、包囲の一方を開けて戦意のない者を逃がし、寄せ手の犠牲を最小限にするという城攻めの常識(孫子の兵法)も恒興は知らなかったようです。
 城攻めはあっという間に終わったが、そのあと恒興はその場で首実検をやり始めたのです。時間の浪費以外なにものでもなかったが、初めて大軍の指揮者になったことに酔っていたのかもしれません。所詮このような軍勢の大将になれる器ではなかったのです。
 この池田勢を徳川家康の本隊と織田信雄の軍勢が追尾していました。城攻めに夢中になっていた恒興はそれに気づいていない。この時点で後続の三好秀次勢や堀秀政勢が既に徳川軍の支隊に襲われて壊滅していたのですが、その事も知らなかったのであるから、部隊間の連絡も全くできていなかったようです。
(つづく)

コメント

2019年
02月11日
21:00

1: RSC

世代が下である筈の実子輝政と随分差がある様に見えます恒興・・・。

2019年
02月11日
21:30

2: U96

>RSCさん
はい。次回で恒興は終わりでしょう。

2019年
02月11日
23:21

自分で岡崎城攻めを提起したのにこんなところで何と悠長なことをしていたのか‥

2019年
02月12日
14:40

4: U96

>闇従(あんじゅ)さん
はい。早く岡崎城を落とさないと自分が危ないですよね。敵地を行軍してきたので、時間との戦いです。