元NASAの宇宙飛行士、ニール・アームストロング氏が心臓疾患の為に亡くなりました。82歳でした。
現在、NASAのトップページは追悼仕様になっています。
http://www.nasa.gov/externalflash/armstrong/index.html
NASAによる報道発表資料(オバマ大統領による追悼コメントも全文紹介)はこちら。
http://www.nasa.gov/topics/people/features/armstrong_obit...
遺族による特別サイトはこちら。
http://neilarmstronginfo.com/
ニール・オルデン・アームストロング氏はオハイオ州出身。海軍奨学金を得てパデュー大学で学び、海軍に入隊。戦闘機パイロットとして朝鮮戦争に従軍(空母エセックスのVF-51に所属、F-9Fパンサーに搭乗)した後除隊し、1955年に、設立されたばかりのNACA(現NASA)でテストパイロットとなります。
テストパイロットの間、彼は200種類を超える様々な機体を操縦する(B-29やB-47といった爆撃機やKC-135空中給油機、F-100〜F-106の「センチュリーシリーズ」戦闘機など)のですが、最も有名なのがロケット機X-15プログラムです。
(以下はNASAが製作したX-15プログラムの記録映画)
彼はこのプログラムで、最高到達高度20万7500フィート(約63.2km)、最高速度マッハ5.74の記録を樹立しています。
この高度は『ストライクウィッチーズ2』第6話で、エイラとサーニャがネウロイ攻撃の為に到達した高度の、およそ倍。
この間に宇宙飛行士になることを志した彼は、宇宙飛行士選抜試験に挑みます。実は仕事が詰まっていて、応募したのは締め切りを一週間も過ぎていたそうですが……。その事情を宇宙飛行士室長のディーク(ドナルド)・スレイトン(アメリカ初の宇宙飛行士7人のひとり)が考慮してくれた為、試験に参加することができたのです。
そして1963年9月13日、晴れて「ネクスト・ナイン(もしくはニュー・ナイン、ニフティ・ナイン)」と呼ばれる第2期宇宙飛行士9人に選ばれます。NASA初の民間人宇宙飛行士でした。
宇宙飛行士として初めてのフライトは、1966年3月16日打ち上げのジェミニ8号でした。彼は船長(コマンダー)として、デイヴィット・スコット飛行士(3期生)とともに、アジェナ宇宙船とのランデヴー、ドッキング実験を行い、翌日太平洋(沖縄東方800km、横須賀南方1000km)へ着水しました。この飛行で彼は、宇宙船で宇宙へ行った、アメリカ初の民間人となったのです。
(1963年7月19日に、ジョセフ・A・ウォーカー氏がX-15で高度100km超の宇宙空間に到達したのが「アメリカの民間人初の宇宙飛行」となっている。民間人初は同年6月16日打ち上げのヴォストーク6号に乗ったソ連の女性、ワレンチナ・テレシコワ飛行士)
飛行時間10時間41分26秒、地球を6と4分の3周というミッションでした。
続いて、1966年9月16日打ち上げのジェミニ11号のバックアップクルー(船長)に選ばれ、ミッション中はキャプコム(CAPCOM。宇宙飛行士と直接やり取りする係)として、同期のピート・コンラッド船長とリチャード・ゴードン飛行士(3期生)の任務をサポートしています。
余談ですが、ピート・コンラッド飛行士は、後にアポロ12号の船長として月面に降り立ち、11号でアームストロング船長が言った名台詞をパロディ化した台詞を言っています。
そしてアームストロング宇宙飛行士、キャリア最大のミッションがアポロ11号です。
言わずと知れた名台詞「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ(One small step for a man, One giant leap for mankind.)」がいいですね。
ちなみに12号のコンラッド船長は、知り合いに
「あれ(アームストロング船長の台詞)はNASAが用意したシナリオを言わされたんだろ?」
と言われて、
「ニールはキザだから、自分で考えて言ったんだよ。……なんなら、NASAが台詞を用意してないと証明する為に、次のオレが『絶対NASAが言わせないだろう台詞』を言ってやる」
と宣言し、実際月への第一歩を記した瞬間
「ニールにとっては『小さな一歩』だったかもしれないが、オレにとってはどエラい一歩だよ」
と言ったのでした。……宇宙オタの間では有名なエピソードです。
コンラッド飛行士も既に亡く、アームストロング氏も亡くなって、月を歩いた飛行士(Moon Walker)が亡くなったのはこれで3人目です。
今回、アポロ11号のクルーがコメントを寄せています。
バズ・オルドリン(着陸船パイロット)「悲報を知ってとても悲しい。そして自分が幾千もの『真のアメリカン・ヒーローの死を悼む人々』の一員になったことを感じた。……彼は私の知る限り、最高のパイロットだった」
マイケル・コリンズ(司令船パイロット)「彼は最高だった。彼を失って、とても悲しい」
咲村にとって、アイドルのひとりでした。
いつかは来るものと思っていましたが、ただただ、残念です。