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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2020年
04月07日
19:57

Uボート陸を行く

 Ⅱ型Uボートは艦の小ささや浮上時のローリングの激しさから、丸木舟を意味するアインバウム(Einbaum)の仇名で呼ばれました。第一の目的は訓練用でしたが、実戦も経験しています。
 ⅡB型の6隻はこれまで潜水艦が実施した中でもっとも非凡といえる作戦に参加したことで有名です。黒海にUボートを運んで作戦させるという考えが初めて持たれたのはバルバロッサ作戦前でしたが、ヒトラーはこのような艦を配備する前に地上のソ連侵攻作戦が成功するものと考えていたため承認しませんでした。1941年末出された2度目の提案も却下されましたが、3度目にしてようやく聞き入れられ、ヒトラーはUボート3隻のルーマニア派遣を承認しました。
 これを受けて1942年夏、ⅡB型の3隻U-9、U-19、U-24がドイツの軍港キールで司令塔、ディーゼル機械、電動機、バッテリーその他小部品の撤去を含む分解工事を実施。ポンツーン5個からなる筏3組を作り、それぞれに1隻づつの船体を横倒しの状態で据え付けられました。1隻当り重量250トン、長さ41メートルもあり、相当の大仕事です。筏はキール運河を通ってハンブルクへ向かい、そこからエルベ河をドレスデンまで登り、市街地近郊の水揚場でポンツーンを水面から引き上げ、船体を特製輸送トレーラーへ載せ替えました。各トレーラーは牽引車4台、2台2組が路面や天候に応じて縦になり横になりしながら曳いていきました。ドレスデンからの輸送隊は最高時速8キロメートルで細心の注意を払いながらアウトバーンを進み、ニュールンベルクを経て南下し、インゴルシュタットでドナウ河に到達。ここで分割・鉄道輸送で到着していたポンツーンへ載せ直されました。
 8月、オーストリアのリンツに到着するといったん船体は浮揚され、メインバラストタンクに注水し艦を垂直に立て直してから再びポンツーンへ据え付けられました。連合軍のスパイや偵察機から何が進められているか隠そうと筏の両舷をバージではさんでおき、移動を再開。ウィーンを通過、ユーゴスラヴィア北部とルーマニアを経てガラツに着いた各船体は浮船渠に入れられ、そこで組み立て完成。乗員へ引き渡され、黒海沿岸のコンスタンツァまで最後の行程は彼らの手で行われ、1942年10月、作戦状態に入りました。
 この第1陣3隻のゴール到達に先立つ1942年8月、ヒトラーは別の3隻を加えるよう指示し、レーダー提督はやはりⅡB型のU-18、U-20、U-23を選抜。輸送システムはすでに実証済みでしたが、冬期の天候状態も問題となりました。しかし第2陣3隻のUボートも無事黒海のフェオドシアへ到着し、1943年5月作戦体勢に入りました。
 6隻のUボートは黒海での行動でソ連輸送船や補助艦艇を一定数沈め、ある程度の成果をおさめました。U-9は戦没、U-18とU-24は1944年8月20日のソ連軍のコンスタンツァ空襲で損傷し、同日自艦乗員の手で爆破処分されました。あとの3隻はトルコへ引き渡しを打診しましたが、トルコが受入れを拒否したため、1944年9月2日、トルコ沿岸沖で自沈処分されたのでした。

コメント

2020年
04月07日
20:19

やはりドイツもクリミア半島をソ連への玄関口として狙ってしたのでしょうか?
その一環としてのUボート陸運ですか?

2020年
04月07日
20:35

2: U96

>鉄砲蔵さん
私はウクライナ全体がソ連の資源地帯だったからと思います。1942年夏といえば、青作戦(スターリングラード戦役)の開始と一致しています。おそらく6隻のUボ-トはクリミアの要塞都市セヴァストポリを兵糧攻めにするために使われたのではないでしょうか?欲を言えば、アゾフ海にもUボートが来てほしかったです。そうすればロストフを干ぼしにできます。ケルチ海峡を北に進撃すると、目的の油田地帯です。