海中型とは海軍中型潜水艦の略称です。海中型はビッカース社のライセンス生産のL型と同時期に呉、横須賀および佐世保の海軍工廠で建造された潜水艦で、呂11から呂32にいたる22隻です。
呂11はいままでの外国設計艦とちがって、これまでの各艦の特徴と実績を考慮して、海軍が独自に設計した最初の艦でした。
船型はシュナイダー社のローブーフ型複殻構造を採用しましたが、ローブーフの完全複殻ではなく、内殻底部が露出した部分複殻構造でした。
排水量はL型より小さく約800トンでした。主機(おもき:エンジンのこと)出力は2600馬力で、L型より200馬力大きかったのですが、水上速力は過負荷で19ノットを公試で記録しました。これは世界記録で、復殻の有利さを立証しました。電動機はL型とおなじで、三菱の600馬力2台でした。呂13以降は三菱と東芝が交互に製作しています。スイスのズルザー式ディーゼル・エンジンは海軍工廠で製作しましたが、はじめは故障が多かったです。
L型には潜望鏡を使用する司令塔がないのですが、海中型呂26から司令塔があり、潜望鏡をここで使用できました。このことは、同じ長さの潜望鏡を使用しても、艦の深度が大きくなり、波の影響をうけずに、よい観測ができるということです。
1921年(大正10年)に完成した呂16にはじめて国産の潜望鏡が使用されました。これは造兵廠製造の7メートル潜望鏡でした。しかし、第2潜望鏡はケルビン7メートルを使用しました。このように海中型は最後まで輸入品が混用されました。
輸入品はキャルボンティエ型(6.5メートル)、ガリレオⅠ型(7メートル)、Ⅱ型(9メートル)、Ⅲ型(7.5メートル)、ツァイスⅡ型(9メートル)、およびケルビン(7メートルと9メートル)でした。
日本光学は潜望鏡のために三菱が設立した会社で、潜望鏡を製作できる唯一の会社でした。
潜望鏡の設計は、海軍技術研究所で実施しましたが、日本光学も多くの潜望鏡を設計しています。昭和10年には10メートル潜望鏡が、昭和11年には11メートル潜望鏡が完成しました。
潜望鏡の昇降は呂1(フィアット社ローレンチ型)で、ガリレオ型を電動機で吊索を巻き揚げる方式を採用していましたが、後には油圧伸長筒で吊索をつりあげました。
潜望鏡の露頂(水面上高さ)を調節しながらつねに正しい姿勢で観測するには、観測者が立つ台(円形板)が潜望鏡とともに昇降する必要があります。
この昇降台が採用されたのは、司令塔が採用された呂26(大正12年完成)からでした。この呂26は海中型のなかでも著しい改善がなされた艦で、これまでの艦がメイン・バラストタンクの排水は高圧空気だけでおこなっていたのに、本艦は低圧空気を併用しました。
高圧空気だけでは、排水末期には高圧空気だけがタンク外に吹き出し、タンクの底の海水は排水されずに残ります。タンクの排水の末期に高圧空気を止め、低圧空気を送ることで、完全に近い状態まで排水できます。
低圧空気は低圧タンク・ブロワー(送風機)によりましたが、これは使用するときは、艦は高圧空気排水で海面上に浮揚しているので、発令所ハッチを開き、ブロワー運転に必要な空気を採り入れます。
低圧排水中は、艦は潜航と浮上の中間状態で、復原力が小さい危険な状態です。このシステムを採用して間もない大正12年8月21日に、呂31は公試運転中、刈屋沖で沈没しました。
低圧システムに関連する乗員の取り扱い上の不注意も一因でした。この事件は関東大震災で世人の注意をひきませんでしたが、多くの教訓を残しました。