おたくの為のSNS おたくMk2

U96さんの日記

(Web全体に公開)

2019年
10月03日
23:09

魔窟アーカイブ:潜水艦飛行船論

 ごめんなさい。もう寝ます。

 水中兵器として、甲標的や回天と並び称せられたものに「海龍」があります。
 実戦には使用されませんでしたが、既製の概念にとらわれない異色の戦力として高く評価され、本土決戦に備えて量産されました。
 海龍はその生い立ちからして、一風変わった経路をたどっています。当時、久里浜にあった海軍工作学校の教官をしていた浅野卯一郎中佐(後に大佐)と横浜工専の佐藤五郎教授によって開発されたもので、海軍が着目したのは三隻目の試作艇が完成してからです。
 浅野中佐は機関学校出身で、その卓越したアイデアは部内でも定評がありました。佐藤教授は市井の発明家として有名だったようです。
 海龍は浅野中佐の着想を、佐藤教授が設計し、工作学校で試作されるという経路を辿ってきました。したがって、試作艇が完成するまで、海軍は無関心であったばかりでなく、艦政本部は、お株をとられたこともあって、一部のものからは白眼視されていました。
 浅野氏の回想記によると、昭和18年ごろ、氏の義兄にあたる玉木留次郎大佐との談話にヒントを得たということでした(玉木大佐は、第七潜水隊司令としてキスカの撤退作戦に従事、伊7潜で昭和18年6月21日、ベガ湾入港の直前、霧中航行中、敵艦のレーダー射撃で戦死しました)。
 玉木大佐の持論である潜水艦飛行船論は、
 「空気と水はおなじ流体である。その中を行動するものは、飛行機であれ、潜水艦にしろ、似ているべきであるのに実際ははなはだ違っている。潜水艦は潜るときはタンクに注水して沈み、浮上するときは排水する。これは飛行船の原理である。
 水より重い水中船に飛行機のような翼をつけ、その揚力によって水面を航行できるようにしておけば、ただ下げ舵をとるだけで潜入できる。注排水の必要もなく、潜航・浮上の秒時を短縮することができる。さらに操縦性と水中速力がともなえば、すばらしい兵器になる」
 というのが、持論の骨子でした。
 当時、潜水艦の全没秒時をいかにして短縮するかが重要課題であり、40秒以内を目標として、訓練していました。
 玉木大佐の持論を具体化したものが海龍でしたが、当初、浅野中佐が画いた有翼潜水艦の構想は「S金物」といって、排水量400トン、速力は水上・水中ともに25ノット、安全潜航深度300メートル、発射管4門、全没秒時5秒という野心的なものでした。
 浅野中佐は、この構想をたずさえて、軍令部の主だった者に説明して実現を迫ったのですが、肝心の艦政本部からは相手にされませんでした。
 そのころ、艦政本部は水中速力20ノットを目標とする通称「潜高」と呼ばれる水中高速潜水艦の建造に取り組んでいたのですが、水中における操縦性能の不安定に手を焼いていたこともあって、「数秒で潜航・浮上するような高速潜水艦は、とても危なくて問題にならない」と考えていたようです。
 ここにいたり、浅野中佐もS金物の建造は断念しましたが、かねてより佐藤教授に設計を依頼していた「スモールS金物」すなわち「SS金物」の設計が進んだので、中佐は強力にその実現に突進していきました。
 海龍の草分けであり、教官として搭乗員の育成に当たった久良知滋氏は、
 「浅野氏の人間像は、かなり優秀だが、いわゆるアクが強く頑固であった。そのため、用兵者の立場でいろいろ改良対策を進言したが、容易に受け入れられず苦労しなければならなかった」
 と、述懐しています。
 久良知氏は海兵七十一期生で、回天の用法に熱中していたとき、SS金物の実験部員をしていた同期の前田冬樹中尉から応援をもとめられました。。昭和19年7月なかばでした。級友のたっての願いだったので受諾しました。
 前田中尉は後に南極観測船「ふじ」の艦長を勤めたことで有名です。
 二人は、浅野中佐と連日連夜にわたり激論をかわしたのですが、浅野中佐は頑として二人の改良案を受けいれようとはしませんでした。ついに久良知中尉は「これだけ申し上げても、われわれ潜り屋の改良案を採用していただけないなら仕方ありません。われわれは荷物をまとめて大浦崎に帰ります」
 と、開き直ったそうです。結局、佐藤教授のとりなしで改良案が大幅に容認され、中央が注目するまでになりました。
 改良は11項目にわたっていますが、主として操縦性能の向上をはかるものであって、機能そのものは、ほとんど浅野中佐の構想がつらぬかれていました。その特性をあげると、つぎのとおりです。
 一、有翼であり、その操縦装置は航空機とまったく同じでした。艇の浮力をゼロに調整しておくと、10秒以内で潜入でき、水中における操縦性と安定性にすぐれていました。
  もっとも、有翼のための欠点もありました。その一は接岸時は特製の木枠を用意しなければなりませんでした。
  その二は荒天時は露頂深度保持がむずかしく、波にあおられて、叩きあげられることがありました。
 二、海龍は独自の施策によって、日本海軍がもっとも苦手とする量産に成功しました。
  1、船体を三つのブロックに分割し、狭隘な場所での艤装や修理が容易です。
  2、水上航走および充電用の発電機にいすずの100馬力ディーゼルエンジンを採用しました。実績のあるエンジンで、当時の船舶用小型エンジンに比べて故障が少なく、安定していました。
 三、海龍は狭小のため発射管を内装できませんでした。そのため、翼下に発射筒を横抱きにしました。これは致命的欠点でしたが、それなりにユニークな工夫がこらされていました。
  1、発射動力として、空気の代りに火薬を使用しました。
  2、発射前後の重量変化をなくすため、発射と同時に魚雷は発射筒の前蓋を打ち開いて飛び出し、発射筒はその反動で後方に脱落するようになっていました。
   しかしながら、万一、発射筒が脱落しなかったら、たちまち沈没する恐れがあります。また、波浪その他の衝撃で前蓋から浸水すると、沈没する危険があるので、ただちに魚雷を発射して捨てなければなりません。
 このほか、攻撃兵器、安全潜航深度等について、用兵者と着想者の間に意見の相違があって、激論がかわされましたが、最終的に決着した主たる要目はつぎのとおりです。
  水中排水量 19.2トン
  全長 17.28メートル
  最大幅 3.45メートル
  速力 水中 9.8ノット
     水上7.5ノット
  航続距離水中 3ノット 36カイリ
      水上 5ノット 46カイリ
  安全潜航深度 100メートル
  発射管(艇外)45センチ2門
  主蓄電池 特k100基
  推進用電動機 100馬力2基
  発動機 80馬力
  乗員 2名
 さて、海龍の戦力化ですが、昭和19年11月、甲標的の篠倉治大尉が着任し、訓練基地として、油壺の東大臨海実験所を譲りうけて開設しました。
 この間、艦政本部は終始傍観的立場にあったのですが、軍令部は乗り気でした。関東地区の防衛戦力が手薄だったからです。
 咬龍の生産は計画を下回り、回天は九州から紀伊半島に展開するのが精一杯でした。
 昭和20年3月1日、SS金物は兵器に採用され、「海龍」と命名されました。同日付で、第1特攻戦隊が発足し、司令官に大林末雄少将が着任、その麾下に横須賀突撃隊と第十一突撃隊(油壺)が編成されて本土決戦に備えました。
 横須賀海軍工廠は4月中に100基、9月末までに760基を目標としてフル生産にはいりました。
 久良知大尉と前田大尉が、突撃隊の特攻長兼教官に任命されました。
 第11突撃隊司令に藤田菊一大佐、副長に池田徳太少佐、特攻隊長に松島茂雄少佐が着任し、久良知大尉が荒天を衝き、60基の海龍を率いて油壺に進出したのが6月中旬です。
 そして、鳥羽、江ノ島、下田、油壺、入勝山、勝浦、小名浜に前進基地を選定し、海龍を展開する計画が進められました。
 終戦時の完成数224基、建造数204基といわれていますが、その過程では魚雷の生産が間に合わず、艦首に600キロ爆装して、体当たり戦法が考えられました。そうなると回天と同じですが、速力の遅い海龍が、どこまで戦果をあげ得るか、はなはだ疑問でした。