版橋の戦いは張悌が企図した通り、この戦役における決戦となりました。ただ結果は呉の敗北に終わり、建業の高官や残る軍は激しく動揺し、闘志を失ってしまいました。
3月28日に郭馬の乱の討伐に向かう途中から建業に帰った陶濬は、益州の艦隊は船が小さく容易に撃破できるので、大型船と水軍2万を与えて欲しいと孫晧に報告しています。孫晧は陶濬の明らかに誤った報告を、自分に都合のよいものであったために正しい情報であると認め、希望通りの兵を与えました。しかし陶濬の報告は正しいものではなく、王濬のの艦隊の軍艦ははるかに呉の軍艦よりも巨大でした。また両軍が接触する時期を考慮すると、王濬の兵力はほとんど無傷のままで、出撃時の4万から途中、増援を受け取って8万にも達し、連戦連勝のために士気も高く、わずか2万の士気の低下した水軍では勝てるわけもなかったでしょう。しかし陶濬は幸運にも戦うことがなかったのです。なぜなら出撃を控えた前日の夜のうちに彼の兵はすべて逃亡してしまったからです。
4月30日、孫晧は張象に1万の水軍を与えて三山(江蘇省南京市西南)にまで達した王濬の艦隊を迎撃させますが、張象は王濬の艦隊の威容を見ただけで降伏してしまいます。本来ならば王濬の艦隊はここで停止して王渾の軍と合流する予定でしたが、王濬は風が晋軍に有利なのでそのまま前進を命じました。
孫晧は光禄勲 薛瑩、中書令 胡沖の計略に従い、首都に迫りつつある司馬伷、王渾、王濬の3人に呉の皇帝の印綬を差し出して降伏するという意志を述べた書簡を送り、3人の間に不和を引き起こそうとしました。印綬は司馬伷に送られますが、不和が起こる前に決着はついてしまいました。
5月1日、王濬の艦隊は建業の北の石頭城(江蘇省南京市)にまで達しました。長江を埋め尽くす晋の艦隊を見た呉帝 孫晧は降伏の礼儀に従ってその軍門に降りました。呉はこのようにして滅亡し、中国は晋によって再び統一され、ここに『三國志』の時代は終わります。
(完)
コメント
04月08日
19:58
1: RSC
最後はあっけなく決まってしまいました。防衛側に核となる人材がいなくなってしまったのが大きいですね
04月08日
20:02
2: U96
>RSCさん
はい。カリスマ的な指揮官がいなくなってからは脆いですね。戦わないで降伏ばかり。
04月09日
06:17
3: 退会済ユーザー
晋はこの後、そんなに永く持たず別の王朝になるんでしたっけ・・・
04月09日
06:28
4: U96
>倶利伽羅いちろうさん
はい。匈奴によって滅亡します。しかしながら復活し、宋によって滅ぼされるまで西暦420年まで続きました。
04月09日
19:03
5: CAOCAO
各人に印綬を渡して分裂を狙うのはいい手ですね
呉ではなくもし劉禅がその手を使っていれば、独断専行の多い鄧艾と野心家の鍾会のコンビには成功したかもしれません
04月09日
19:21
6: U96
>CAOCAOさん
なるほど!蜀漢がその手を使えばよかったのですね。ありがとうございます。