晋の杜預がそのまま南下すると、荊州の南部の諸都はもとより、広州、交州の諸都までが次々に呉の太守のしるしである印綬を差し出して降伏しました。
王濬の艦隊は胡奮の軍と共同し、夏口をほとんど抵抗も受けずに攻略しました。予州より南下した王戎は参軍 羅尚、劉喬を先鋒として進撃を続け、王濬の艦隊と共に武昌の攻略にとりかかりました。圧倒的な晋軍を前にして武昌を守っていた呉の将軍 楊雍、孫述、江夏太守 劉朗は軍を率いて王戎に降伏しました。武昌の陥落により、武昌の北岸の蘄春、邾を守っていた呉の牙門将 孟泰も王戎に降伏しました。
王濬と王戎が協力して武昌の攻略に成功した報告を聞いた大都督(総司令官) 賈充は項から洛陽の晋帝 司馬炎に向けて、季節が夏になると長江、淮水下流は疫病が必ず流行するので、諸軍を撤退させて今後に備え、主戦論者の張華を処刑して天下に謝罪すべきであるという意見を提出しました。中書監 荀勖も賈充の意見に従うように要請しました。しかし司馬炎はこれに従わず、賈充の意見を知った杜預も上奏文を送ってこれに対抗しました。
侵攻軍の中でも、夏に向けて長江の水かさが低下して大型艦の多い晋軍の行動が制約され、疫病が流行するので、冬を待って再度、侵攻するべきだという意見が出ていました。これに対して杜預は「破竹の勢い」の語源となった、
「今、軍隊の勢いは非常に高く、たとえて言えば竹を割るようなものだ、節をいくつか割ってしまえば、後は刃を自然と迎えてそのまま割れてしまい、また手に力をこめることもない」
という有名な言葉を述べて、いならぶ将軍たちに建業への進撃を命じました。進撃を続行するかどうかの論争が続いている間も、王濬の艦隊は停止せず、そのまま建業めざして進撃を続けました。
(つづく)
コメント
04月06日
20:31
1: 退会済ユーザー
初代や2代目と違い、3代目くらいの権力者になると
前線に立つ事はもう無いか・・・
04月06日
21:35
2: U96
>倶利伽羅いちろうさん
はい。帝が自ら前線に出ることを親征と呼びました。
04月06日
22:53
3: RSC
もしここで司馬炎が撤退を指示していたら、呉にも生き延びるチャンスがあったのでしょうか・・・。
04月07日
06:44
4: U96
>RSCさん
実はまだ呉は反撃を画策していたのですが、主力は壊滅、人材の枯渇により、無理だったのではないかと思います。
04月07日
21:05
5: CAOCAO
夏になったから大事を取って撤退するというのは分かりますが、ここまでの戦が順調に進んでいるのにも関わらず張華を処刑するよう奏上するのは、難癖をつけて政敵を排除したい意図が透けて見えますね
曹髦殺しの際もそうですが、正直、賈充は自己の権力拡大のみを考えた小人としか思えません
そう考えると、後に晋を混乱に陥れた賈南風もこの親あってこの子ありといった感じでしょうか
04月08日
05:37
6: U96
>CAOCAOさん
なるほど!晋が数十年しか持たなかったのは賈氏nためかもしれませんね。
04月08日
12:37
7: 闇従(あんじゅ)
青巾兵の敗北でもう呉に兵なし‥
こうなると一気に瓦解ですね。
とても戦を続けられる状況ではなくなってしまいました。
呉が滅びるまであと僅か。
04月08日
14:44
8: U96
>闇従(あんじゅ)さん
はい。次回最終回です。