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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2019年
02月13日
20:34

岩崎城と長久手の戦い(最終回)

 家康の出動を知った秀吉は、野戦で討ち取るべく、十万の大軍を率いて楽田の陣を出て南下したが、予めそれを予想していた家康は、夜のうちに小幡城に入ってしまい、翌日にはさっさと小牧山に帰ってしまったので、池田恒興や三好秀次の別動隊を潰された分だけ秀吉が負けた形になって終了しました。
 その後の岩崎城と丹羽氏は、織田信雄が秀吉によって領地を奪われて下野の那須に流されると、丹羽氏次は領地を伊勢に移されて七千石を領したといわれます。関ケ原の戦いの時は徳川方に属したので加増を受け、三河伊保(豊田市猿投町大字上伊保)に移され一万石を与えられて大名に列しました。子の氏信の代に美濃岩村(恵那郡岩村町)二万石に移封され、六代氏音の代に家中騒動があって越後高柳(新潟県新井市)一万石に左遷されました。七代薫氏の時に播磨三草(兵庫県加東郡社町)一万石に移されました。
 丹羽氏は尾張系の豪族であり、織田信長から織田信雄に属しており、家康が関東に移った後は伊勢に移されていて、徳川家に直属したのは関ケ原の戦いの後なのですが、江戸時代には譜代として扱われています。岩崎城で戦死した丹羽氏重の印象が強かったせいか、徳川家では岩崎の丹羽氏は譜代と考えていたようです。
 岩崎城は、丹羽氏が伊勢へ移った時点で廃城となりましたが堀、土塁等は割と良好に残存していました。
(完)

コメント

2019年
02月13日
20:47

1: RSC

戦いを生き延びた池田輝政が、後に恒興を討ち取った永井直勝とこの時の事を話し、彼の領地が少ない事から「父の首はその程度か」と嘆息し、家康に言上して領地を加増させたそうですね。

2019年
02月13日
20:59

2: U96

>RSCさん
ひゃあ!それは知らなかったー勉強不足でごめんなさい!