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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争

2018年
09月15日
17:48

クリミア戦争史(その45)

 アレクサンドル二世は6月の段階でカルスへの攻撃を命令していました。命令を受けたムラヴィヨフ将軍は歩兵21000、コサック兵6000、大砲88門を率いて70キロ離れたロシア・トルコ国境からカルスを目指して進撃しました。カルスにはトルコ軍18000が駐留していました。守備隊司令官は英国軍のウィリアム・ウィリアムズ将軍でした。ウィリアムズ将軍は、野戦ではロシア軍に太刀打ちできないと見て、町の要塞化に全力を注ぎました。カルスのトルコ軍には、1848~49年の蜂起に敗れて亡命した。ポーランド人の他、イタリア人、ハンガリー人など、多数の外国人士官が参加していて、優れた工兵技術を有する外国人士官も少なくなかったのです。ロシア軍は6月16日に最初の攻撃を試みたのですが、トルコ軍がこれを撃退すると、町を包囲する作戦に出ました。兵糧攻めによって降伏に追い込もうとしたのです。
 トルコ軍の首脳部はカルス救援のために増援部隊を派遣しようとしました。オメル・パシャ司令官はケルチ地峡とエフパトリアに展開しているトルコ軍(歩兵25000、騎兵3000)をカルスへ移動させようとして、英国軍とフランス軍の司令部に承認を求めました。オメル・パシャ自身は「チェルケス地方の海岸線のどこかに上陸してロシア軍の補給通信ルートを脅かし、それによってカルス包囲を中止させる」計画でした。現地の司令部は判断を避けて、問題をロンドンとパリの政治家に委ねました。両国政府は初めのうちはトルコ軍をクリミア戦線から他に移動させることに反対でしたが、後に承認に転じました。ただし、大筋では賛成だが、カルスに到達する最善のルートについては意見が分かれたままでした。オメル・パシャの率いる増援部隊はようやく9月6日にクリミアを離れ、グルジアの海岸のスフミに向かいました。しかし、スフミから40000人のトルコ軍を率いて南カフカスを横断するには数週間の時間が必要でした。
 一方、カルスを包囲していたロシア軍のムラヴィヨフ将軍は焦っていました。包囲作戦の方は効果を上げていて、カルス市内では食糧不足とコレラによる死者が急増していました。しかし、セヴァストポリが陥落した今、皇帝からは可及的速やかにカルスを落とすようにとの命令が出ていました。オメル・パシャに率いられてトルコ軍の援軍がやってくるという噂が伝わっていた現在、気長に兵糧攻めを続けるわけにはいかなくなりました。そこで、ロシア軍は、9月26日、カルスの各要塞に対して総攻撃を開始しました。防衛側のトルコ軍は、弱体化していたにもかかわらず、大いに善戦し、砲撃を効果的に駆使してロシア軍に甚大な損害を与えました。ロシア軍の戦死者は約2500人、負傷者は5000人に達したが、トルコ軍の死傷者は1000人程度でした。ムラヴィヨフ将軍は兵糧攻めに復帰しました。オメル・パシャは、数度にわたる出発延期の後、10月の半ばになってようやくスフミからカルスに向けて長途の進軍を開始しました。その頃、カルスではトルコ軍が餓死寸前の状態に陥っていました。市内の病院は壊血病の患者で溢れていました。母親たちは飢えた子供をウィリアムズ将軍の宿舎に連れて行き、食事を与えるように懇願して置き去りにする有様でした。市内の馬は残らず食肉となりました。
 10月22日、オメル・パシャの息子セリム・パシャの動きが伝えられました。セリム・パシャがトルコ軍20000を率いてトラブゾン付近の海岸に上陸し、エルズルムを目指して南下しているという話でした。エルズルムに到達すれば、そこからカルスまでは徒歩で数日の距離でした。しかし、セリム・パシャがエルズルムに入った時には、カルスでは状況がさらに深刻になっていました。1日に100人の死者が出る一方で、兵士の脱走が日常茶飯事となっていました。兵士たちの士気も極端に低下していました。10月末には大雪が降り、トルコ軍の援軍がカルスに到達することは事実上不可能となりました。
(つづく)

コメント

2018年
09月15日
19:49

ロシアは まだ余力があったのですね。
やっぱり昔から大国なんだなあ。

好意が得意なので要塞化したら 兵糧攻めで大打撃!
早く援軍が到着すると良いですね。

2018年
09月15日
20:04

2: RSC

ここで陸上でも猛威を振るう壊血病!包囲戦では満足に野菜は摂取出来なかったでしょうね・・・

2018年
09月15日
21:26

3: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
はい。余力があったのですね。しかしながら、現在は違います。史上最大の地上戦「独ソ戦」で男が根こそぎ死に、今でも女性の結婚難の状況が続いております。

カルスはもう駄目ですね。これでお手打ちとして和平をというのがフランスでしたが、英国は渋い顔をしています。

2018年
09月15日
21:31

4: U96

>RSCさん
はい。カルスが降伏したとき、ムラヴィヨフ将軍は4000人の傷病兵の看護と3000人の兵士・市民に食糧を提供しました。