ゴルチャコフ総司令官は、皇帝への釈明文で、敗北の責任はすべて戦死したリード将軍にあると説明しました。ゴルチャコフがフェデューヒン高地のフランス軍を総攻撃する目的で予備師団を投入したにもかかわらず、リード将軍はその意味を理解しなかったと論じたのです。8月17日付の皇帝宛の書簡には「もし、リード将軍が私の命令を正確に理解していれば、攻撃作戦は失敗しなかっただろう。作戦で戦死した兵士たちの少なくとも三分の一は命を失わずにすんだだろう」と書かれています。しかし、戦死した将軍に責任をかぶせようとするゴルチャコフの企みはアレクサンドル二世を納得させなかったのでした。皇帝が望んでいたのは有利な条件で連合軍に和平を提案する前提としての軍事的成功だったのですが、この敗退は皇帝の計画を台無しにしてしまいました。
セヴァストポリが連合軍の手に落ちるのは今や時間の問題でした。ロシア軍はセヴァストポリからの撤退準備に入りました。撤退計画の中心的な課題は、町の南側地区と北側地区を隔てる湾港に浮橋を浮かべて、南から北への退路を確保することでした。北側地区に移動すれば、南側地区を連合軍に占領された後も一定の優位を維持することができると考えられたのです。すでに7月第一週の段階で最初に浮橋構想を提起したのは、天才的な工兵隊指揮官のブーフメイエル将軍でした。当初、浮橋構想には工兵隊関係者の多くが不可能であるとして反対していました。ブーフメイエル将軍が提案した架橋地点は南側地区のニコライ堡塁と北側地区のミハイロフ砲台でしたが、その間には960メートルの海面が広がっていて、強風が吹けば激しく波立つ場所でした(960メートルの浮橋は歴史上最長の舟橋でした)。しかし、事態の緊急性に迫られて、ゴルチャコフ総司令官はこの危険な浮橋計画を承認し、数百人の兵士を動員して遠く300キロ離れたヘルソンから木材を運ばせました。運ばれた木材はブーフメイエル将軍の指揮する水兵たちの手で舟橋に組み立てられ、8月27日に完成しました。
この間、英仏連合軍はマラホフ要塞とレダン要塞に対する再攻撃の準備に入っていました。英仏軍はすでに8月末の段階で、ロシア側の防備が長く持ちこたえられないことを正確に察知していました。再び攻撃すればセヴァストポリを奪うことが可能であるとの見通しを得た英仏軍の指導部は、できるだけ早い時期に攻撃を実行すべきだと判断していました。9月が近づき、天候が変わろうとしていました。連合軍の指揮官たちが恐れていたのは、クリミア半島で二度目の冬を過ごすという事態でした。
(つづく)
コメント
08月26日
20:13
1: RSC
要塞も大規模になると撤退はかなり大変なのですね・・・。
08月26日
20:30
2: U96
>RSCさん
はい。しかも民間人も脱出させなければなりません。
08月27日
08:28
3: ディジー@「本好きの下剋上」応援中
戦闘で優位に立って 講和を有利に運ぼうとして失敗しズルズルと。 戦争は止め時が難しいですね。
戦死しても次の将軍が登場してくるとはロシア軍は層が厚いですね。
08月27日
15:14
4: U96
>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
止め時を間違えたのは太平洋戦争も同じですね。
ソ連時代になると軍人の粛清がありましたので、第二次大戦時、深刻な士官不足になりました。