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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争

2018年
08月27日
19:51

クリミア戦争史(その40)

 チョールナヤ川の戦闘でフランス軍がロシア軍を撃退して以来、ペリシェ総司令官の権威は大いに高まっていました。本来、ナポレオン三世は開かれた平野部での野戦に移行する方針に賛成で、セヴァストポリ攻囲作戦に固執するペリシェの姿勢に疑問を抱いていたが、チョールナヤ川の戦闘で勝利した後は、その疑念を封じてペリシェを全面的に支持し、決定的勝利の実現を将軍に託していました。
 英国軍はフランス軍総司令官の方針に追随せざるを得なかった状況です。英国側には独自の軍事方針を強行するだけの兵力も戦績もなかったからです。6月18日の戦闘で破局的な敗北を喫して以来、英国のパンミュア陸軍相はレダン要塞攻撃の失敗を二度と繰り返すまいと決心していました。たとえ新たな攻撃作戦が実行された場合でも、英国軍の参加は問題外とさえ一時は思われていました。しかし、チョールナヤ川の戦闘の勝利によって事態は変化しました。新たな攻撃作戦に英国軍が参加する希望が生まれたのです。
 フランス軍はこの間も着実に塹壕を掘り進んでいました。その最先端はすでに敵の逆茂木群の付近に達し、マラホフ要塞の外側の溝までわずか20メートルの距離に迫っていました。このため、ロシア軍の狙撃兵による損害も増大しました。一方、英国軍も最大限の努力を払って岩だらけの台地に塹壕を掘り進み、レダン要塞まで200メートルの距離に到達していました。要塞に近づいたために、英国軍にもロシア軍の狙撃兵による多数の死傷者が出ました。犠牲者は英仏両軍を合わせて、連日、250人から300人にのぼりました。
 突撃作戦開始の日付は9月8日に設定されました。6月18日の失敗の教訓から、今回は事前に大々的な砲撃を加えることになりました。本格的な砲撃は9月5日から開始する予定でしたが、それに先立ってすでに8月末から砲撃が強化されました。英仏両軍の大砲は前回よりも近距離から一日五万発の砲弾をロシア側に撃ち込み、セヴァストポリ中心部の建物はどれ一つとして無事な姿をとどめていませんでした。人的損害も甚大でした。8月の最終週には、連日千人単位で兵士と市民が死傷し、本格的砲撃が始まってからは、最初の三日間だけで8000人に近い人々が死傷しました。
(つづく)

コメント

2018年
08月27日
20:32

1: RSC

イギリスが主導権を失ったままですね。

2018年
08月27日
21:02

2: U96

>RSCさん
ラグラン総司令官が戦死し、ジェームズ・シンプソン将軍が後任となりましたが、彼の能力も未知数です。

2018年
08月27日
23:03

砲撃はともかく 狙撃でそれだけの被害が出るのは 最前線の兵士は怖いですね。

2018年
08月28日
04:28

4: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
塹壕が要塞に近づきすぎたからです。要塞の屋上から兵士の顔が丸見えだったそうです。