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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争

2018年
08月08日
20:19

クリミア戦争史(その35)

 ロシア軍は窮地に追い込まれていました。連合軍が6月初めにケルチ地峡を占領してアゾフ海経由の補給路を封鎖して以来、武器弾薬が不足し始めていました。不足が特に深刻だったのは小型の臼砲弾でした。砲兵隊は、反撃は敵の砲弾四発に対して一発に限定せよと命令されていました。一方、連合軍側の集中砲火は世界の攻囲戦史上最大の規模に達しようとしていました。英仏両国の工業力と輸送能力が一日75000発の砲弾の発射を可能としました。時代遅れの農奴経済に依存していたロシアは、工業生産力を背景とする新しいタイプの戦争に対処することができなかったのです。
 ロシア軍の士気は危険な水準まで低下していました。それに追い打ちをかけるように、6月、ロシア軍は二人の指揮官を失いました。まず、6月22日の砲撃でトートレーベンが重傷を負い、後方へ移送されて現役を退きました。その6日後、ナヒーモフ提督が第四要塞の砲台を視察中に顔面に敵の銃弾を受けて倒れ、意識不明のまま運ばれた二日後の6月30日に宿舎で死亡しました。ナヒーモフ提督の葬儀はセヴァストポリの全住民が参加して厳粛に執り行われました。葬儀の間は連合軍も砲撃を中断しました。
 6月末、セヴァストポリは絶望的な状況に追い込まれていました。補給不足は武器弾薬にとどまらず、食料と水までが逼迫し、生活そのものが脅かされる状況となりました。ゴルチャコフ将軍はセヴァストポリからの撤退準備を開始しました。すでに多くの市民が餓死を恐れて市外に脱出していました。また、夏を迎えて猛威を振るいはじめたコレラやチフスなどの疫病を恐れて脱出する市民も少なくありませんでした。セヴァストポリ市の防疫対策専門委員会の報告によれば、伝染病による6月の死亡者数は、コレラによる死者だけで一日に30人を数えました。市民たちの大部分は砲撃で破壊された自宅を捨ててニコライ堡塁に避難していました。ニコライ堡塁は南側地区の北端にあって、港湾に面していましたが、兵舎をはじめ、事務所や商店などの施設がすべて防壁によって囲まれていました。さらに、湾を渡って対岸の北側地区に避難する市民もいました。
 夏に入ってからは、脱走兵の数が増加しました。セヴァストポリから市外に脱走する兵士の数は一日20人に達しました。夏に脱走が急増した理由は食糧事情の悪化にありました。ロシア軍の兵士はほとんど糧食を与えられず、与えられたとしても腐った肉だけという状況でした。8月の第一週には、セヴァストポリ守備隊で反乱が発生したという噂が流れました反乱は残忍に鎮圧され、反乱発生の証拠は当局によって抹消されたが、そのすぐ後で、ヘンリー・クリフォードは父親宛の手紙にこう書いていました。「セヴァストポリ市内で発生した反乱は鎮圧され、軍法会議で死刑判決を受けた100人のロシア兵士が銃殺されたという話です」。守備隊のうち数連隊が解体され、危険分子と見なされた兵士たちは予備役に編入されました。
 アレクサンドル二世は、セヴァストポリがこれ以上もちこたえられないと見て取ると、連合軍の包囲網を突破しての最後の出撃命令を総司令官ゴルチャコフ将軍に命令しました。
(つづく)

コメント

2018年
08月08日
22:30

戦争の技術以外の経済や社会体制の近代化に乗り遅れたのがロシアにとって痛いですね。

ここまできたら一旦撤退して 体勢を立て直してから反撃すれば良いのに。地元なのだから立て直せたでしょう?
出撃命令とは強気ですね~

2018年
08月08日
22:45

2: RSC

これでもまだ「後がある」のがロシアの怖いとこですね。

2018年
08月09日
05:55

3: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
クリミア半島の出口であるケルチ地峡が占拠されたので、セヴァストポリ市外へ撤退しても立て直せるかどうか、あやしいですね。ここまでくるとロシア人らしく死ねですね。

2018年
08月09日
05:59

4: U96

>RSCさん
皇帝はクリミアを失った後でも、全スラブ民族へ決起を呼びかけ、ゲリラ戦をして列強に抵抗しようと考えます。まるでイスラム国ですね。