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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争

2018年
07月31日
19:24

クリミア戦争史(その29)

 その頃、英仏軍の間に意見の対立があることが明らかになり、カンロベール仏軍司令官が公然と不満を口にし始めました。カンロベールは戦略の転換を支持していました。つまり、セヴァストポリへの砲撃戦よりもクリミア半島全域の征服に努力を振り向けるべきであるという観点から、フランス軍部隊を突入攻撃に投入することに消極的になりました。突入すれば大量の死傷者を出すことになるが、同じ犠牲を強いられるなら、新戦略に戦力を投入する方が効果的と思われたのです。さらに、フランス軍工兵隊司令官アドルフ・ニエル将軍も突入攻撃に反対でした。ニエル将軍の許には、ナポレオン三世から、自分が到着して直接に作戦の指揮を取る時までセヴァストポリ突入作戦の開始を引き延ばすようにとの秘密命令が届いていたのです。
 フランス軍抜きの単独行動を嫌って、英国軍も突入を中止し、作戦をヴォロンツォフ峡谷の東端に位置するロシア軍射撃壕への夜襲に限定しました。襲撃は4月19日の夜に実行されました。この射撃壕はレダン要塞への英国軍の攻撃を阻止する働きをしていました。英国軍第七七歩兵連隊は激戦の末に射撃壕を奪取したが、勝利の代償は大きかったのです。連隊司令官と副司令官がともに戦死したのです。ナサニエル・スティーヴンス大尉は4月23日付の家族宛の手紙に書いています。
 「我が軍も重大な損害をこうむった。兵士の死傷者は60人に達し、士官も7人が戦死した。戦死者の中には、第七七歩兵連隊司令官のエジャートン大佐(頑強な巨漢)とランプリエール大尉も含まれていた。この作戦で初めて中隊の指揮を任されたランプリエール大尉はまだ年若い青年(23歳)で、連隊では最も小柄な士官だった。エジャートン大佐はランプリエール大尉を『わが息子』と呼んで可愛がっていた。ランプリエール大尉は射撃壕の第一波突撃を指揮して倒れた。エジャートン大佐はランプリエール大尉を両腕で抱え上げて陣地まで戻り、『わが息子を死なせてなるものか』と言い残して第二波突撃を敢行したが、彼もまた戦死した」
 4月24日、ラグラン総司令官はパンミュア陸軍相宛に書簡を送り、「カンロベール将軍を説得してフランス軍を動かし、マメロン稜堡の奪取を実現しないかぎり、我が軍が安全に前進して作戦を成功させる見込みはない」と報告しています。フランス軍にとってマメロン稜堡を奪取することはマラホフ要塞を落とすための前提条件であり、同様に、英国軍がレダン要塞を攻略するためには、その前に採石場を占領する必要がありました。5月16日にカンロベールに代わってペリシェ将軍が総司令官に就任すると、フランス軍はにわかに積極的になり、英国軍の採石場攻撃と連携してマメロン稜堡を攻撃することに同意しました。
 6月6日、作戦は前哨地点に対する砲撃とともに始まりました。砲撃は翌7日の夕刻6時まで続きました。6時には突撃を開始する予定でした。ラグランとペリシェが6時に戦場で合流し、共同して同時に突撃の号令を下すことになりました。ところが、約束の時刻になってもペリシェは現れませんでした。フランス軍総司令官は戦闘開始前に仮眠を取ろうとして、つい熟睡してしまったのです。ペリシェは一時間遅れて戦場に姿を見せたが、その時にはすでに突撃は始まっていました。先にフランス軍がマメロン稜堡に向かって突進し、その喊声を耳にして、英国軍も採石場への突撃を開始しました。ペリシェに代わってフランス軍部隊に突撃命令を下したのはボスケ将軍でした。
(つづく)

コメント

2018年
07月31日
19:51

1: RSC

ナポレオン三世の横槍もありますが、英仏の基本的な仲の悪さが表面化した感がありますね。

2018年
07月31日
19:53

最初から英仏が仲良く出来ていたら もっと早く戦争が終わったかもしれませんが、そうならないのが人間ですねえ~

しかも寝坊かよwww

2018年
07月31日
20:01

3: U96

>RSCさん
2カ月近く無駄になりましたね。こうしている間にロシア軍は陣地の補修を行ってしまいました。

2018年
07月31日
20:14

4: U96

>ディジー@「本好きの下克上」応援中さん
明日はいよいよマラホフ要塞・マメロン稜堡降伏です。
セヴァストポリ陥落は迫る!

2018年
08月01日
19:37

>ボスケ将軍

ボスケ将軍ってのが私のボスけ?

2018年
08月01日
20:15

7: U96

>櫻 玉吉 (過熱気味)さん
副官です。