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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争

2018年
07月29日
18:58

クリミア戦争史(その27)

 季節が春に移ると、兵士たちも元気を回復しました。
 英国軍の陣地では食料品など基本的な物資の補給が改善され、兵士の士気も回復しました。補給改善に貢献したのは主として民間業者が参入したためで、民間業者の参入を許したのは、政府による調達補給システムの機能不全でした。1855年春、カディコイ村には多数の貿易業者や酒保商人が屋台や売店を開いていました。法外に高い値段を支払いさえすれば、ありとあらゆる商品を買うことができました。
 英国軍の物資補給体制の改善にあたって決定的に重要な役割を果たしたのは、バラクラヴァ港からセヴァストポリを包囲する英国軍陣地までを結ぶ鉄道の建設でした。世界の戦争史上初の戦場鉄道である「クリミア鉄道」の構想は前年1854年の11月に始まりました。当時、英国軍兵士の惨状が『タイムズ』紙によって初めて本国に伝えられ、最大の問題点がバラクラヴァ港から高地にある英国軍陣地までの泥道を泥濘に抗して補給品を運び上げる作業の難しさにあることが明らかになりました。この記事を読んだ人々の中に鉄道王サミュエル・モートン・ピートーがいました。ピートーはアバディーン政権から10万ポンドの補助金を引き出してクリミア鉄道のための建設資材を調達し、同時に、膨大な数の労働者を雇い入れました。鉄道工夫として参加したのは、主としてアイルランド人でした。鉄道工夫の第一陣は1855年1月末にクリミアに到着し、1日に500メートルのレールを敷設するという猛烈な勢いで仕事を開始しました。3月末までには、バラクラヴァ港と英国軍陣地近くの積み降ろし基地を結ぶ延長10キロの鉄道が全線開通しました。鉄道の完成によって、セヴァストポリに対する砲撃再開を目的としてバラクラヴァ港に到着していた重砲と臼砲をラグラン総司令官が指定した期限内に運び上げることが可能となりました。英仏連合軍は砲撃再開の日時を復活祭の月曜日にあたる4月9日とすることにすでに合意していました。
 計画では、セヴァストポリに対して10日間連続砲撃を加え、その後に市内に突入する予定でした。英仏軍合わせて500門の大砲が四六時中砲撃を加えるという今回の作戦は、前年10月の第一次砲撃作戦のほぼ二倍の規模であり、セヴァストポリ攻囲戦を通じて最大の砲撃作戦というにとどまらず、史上最大の砲撃作戦になるものと考えられました。戦争の終結を願っていた連合軍の兵士たちはこの攻撃作戦に大きな希望を託しました。
(つづく)

コメント

2018年
07月29日
19:22

1: RSC

後方で補給用に鉄道が敷かれるとか、もう屯田などのレベルを越えた事態ですね。

2018年
07月29日
19:55

2: U96

>RSCさん
実はフランス兵はテント近くに菜園をつくっております。
英軍は冬の間に劣悪だった食事事情も改善しています。フランス軍ではナポレオン時代から常備していた野外調理用の移動式コンロが400台導入されました。これ1台で1度に50人分のスープを提供できました。

2018年
07月29日
20:33

古代から戦争の後方に商人がくっついていって、略奪品の買い取り等をしていたと読んだ事がありますが、儲ける為なら何処までも!ですねw

さあ戦争の為に鉄道を敷設するようになりました!
殺し合いの近代化はトドマルところを知りません!

2018年
07月29日
21:51

4: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中 さん
日本の戦国時代でも「古金買い」と呼ばれる衆がいて、戦場になった土地に現れて金属製品をきれいさっぱり持って行ってしまいました。もちろん処罰の対象で、捕まるとひどい目にあいました。ついでながらフランス外人部隊の行くところには娼婦がぞろぞろついていきました。

鉄道ができたら、今度は列車を守らなければなりません。現代でもアフリカで、武装した装甲列車が走っております。

さて、次回は復活祭を祝う民衆の頭の上を砲弾が飛び交います。