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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2018年
05月27日
05:42

アメリカ南北戦争(その7)

 7月9日、リンカンはマクレランを北軍司令官の地位からおろし、ハレック将軍をその地位に任じました。西部戦線でグラントの邪魔をするしか能がなかったあのハレックです。彼はまた、西部戦線から子飼いの将軍ポープを呼び寄せ、南部侵攻軍の指揮をとらせました。ポープは悪い意味で常識を欠いた人物で、軍事的力量にもとぼしかったのです。
 ハレックとポープは、ワシントンからリッチモンドへの正面進撃作戦を行なおうと考え、8月半ばに兵力を集中し始めました。これに対してリーははるかに優勢な敵軍に対して兵力を分割してストーンウォール・ジャクソンに預け、ポープをおびき出してこれを叩こうと考えました。
 この戦いはマナサス駅北方で行われ、第2次ブル・ランの戦い(または第2次マナサスの戦い)と呼ばれました。
 8月13日、ロングストリート指揮する十個旅団がジャクソンの軍に合流しました。8月24日、リーはジャクソンをジェファソントンの野営地に訪ね、ジャクソンに全軍を率いてポープの軍の側面を迂回する動きに出てはどうかともちかけました。ジャクソンはすぐさま乗ってきました。ジャクソンは三個師団を率いて8月25日の朝に出発しました。灰色の軍服の長い列は西へ、北へとくねりながら進み、25日中にセーレムに着きました。
 翌日の夜明け前、南軍はマナサス・ギャップ鉄道の線路に沿って行軍を始め、山脈のギャップ(峠)を通ってゲインズヴィルに達しました。ここで南軍は唯一遭遇した北軍兵を蹴散らしました。午後遅く、先発隊はポープの補給線上にあるブリストー駅に到着しました。2日で86kmを走破したのです。連邦の列車を脱線させ、次の列車がその車両に激突するのを見物した南軍の間には、祝日気分がただよっていました。こうしてポープは、とりわけ劇的な方法で自らの補給線上に敵がいることを知らされたのです。ポープは南軍を追いやるべく、即座に北上を開始しました。
 その間、ジャクソンの配下の兵たちは5km北のマナサス駅に北軍の大規模な物資貯蔵所があることを知りました。ブロードランの小川にかかる橋でポープを食い止めるためにユーエルを残すと、ジャクソンは他の二個師団を率いてマナサスに向かいました。マナサスに着くと、士官たちも部下の行動を大目に見ることにするなか、疲れ、腹をすかせた兵たちは持てるだけのものを奪いました。
 ぼろぼろの南軍兵士たちにとって、これほどの収穫にありつくことは初めてのことでした。ある一人は「歯ブラシや箱詰めの蝋燭、ロブスターサラダ、樽入りのコーヒー、それに思い出せないいろんなものを手に入れた」と感激もあらわに書き残しています。
 こうした幸運にもかかわらず、ジャクソンの立場は危ういものでした。兵力で勝るポープが南から迫っている上、別の小規模の北軍部隊が北から偵察に来ていたのでした。ブル・ランとブロードランの両川にかかる鉄道橋がいずれも灰燼に帰した状況にあって、取るべき道はただ一つ。西方に後退して、同じ道を近づいてくるロングストリートとの合流を果たすことでした。しかしジャクソンは2kmほど西方のなだらかな丘を占拠して、暗にポープに挑戦する構えを取りました。ポープもその期待に応えることになります。
 南軍の略奪隊が補給線上のブリストー駅にいるとの報せに接したとき、ポープはこれに立ち向かうべく兵を率いて北に向かいました。連絡線の確保が心配だったことは間違いないが、南軍を捕捉、撃滅しようとの意気込みもありました。8月27日の午後、ポープはユーエルをブリストー駅まで押し戻し、そこで初めて南軍の略奪隊がほかならぬジャクソンの全軍だと知りました。この情報に委縮するどころか、ポープは捕捉できさえすれば生意気なジャクソンに決定的な痛打を加える好機だと思いました。
 ポープはまだ、ジャクソンが西方へ逃げずにサドリー山の手前の斜面に陣取っているということは知りませんでした。北のサドリー教会から街道辻の町グローヴトンのすぐ北まで伸びるジャクソンの陣地は、とりわけ強固というわけでもなかったのですが、その前面を走る建設中の鉄道路線の切り通しに守られていました。最大の強みは、ポープがこちらの位置を知らないということでした。
 その間、ポープは各方面の師団にマナサスへの集結命令を発していました。その一つ、マクダウェル軍団のキング師団は8月26日にジャクソンの眼前のウォレントン・ターンパイクを行軍しました。青色の軍服の連邦軍の隊列が通過していくのを見たジャクソンは、絶好のチャンスを見過ごしにすることはできませんでした。両軍はグローブトンの戦いとして知られる激しい正面決戦の形でぶつかりました。北軍は撤退したのですが、ジャクソンは自分の位置をさらけ出してしまいました。
 ポープは、キング師団がジャクソンに出くわしたのは、ジャクソンの総退却中のことだと思い込んでいました。ジャクソンを逃がすまいとするポープは軍団司令官たちに古典的な両翼包囲を意図した命令を発しました。二方向からの北軍によってジャクソンを粉砕するつもりでした。その一つはマクダウェルとポーターの軍団で、これらにはポープはゲインズヴィル占拠を命じました。もう一つはポープ自身の率いるマナサスにある残りのヴァージニア軍です。
 しかしポープはジャクソンの意図を、さらには自軍の配置さえを正しく理解していなかったのです。そして、ヨークタウン半島から戻ってきた北軍部隊の一部については、その忠誠心はマクレランへのものでありポープに対するものではなかったが、ポープはその点も正しく認識していませんでした。
 8月29日、ポープはマクダウェルとポーターに対して共通命令を発し、ブリストー駅からマナサス・ギャップ鉄道沿いの経路をゲインズヴィルに向かうよう命じました。ゲインズヴィルでは、ポーターの軍団はマナサス・ギャップ沿いのジャクソンの逃走路を封鎖し、同じ経路での増援がジャクソンに届くことも防ぐ予定でした。ポーターの軍団はさらに、ポープの鉄槌が打ち下ろされる際の金床となるはずでした。
 しかしながら、ポーターはついにゲインズヴィルに到着することはありませんでした。ドーキンズ川に接近したところで南軍の散兵に行く手を遮られたのです。ポープはのちにこの作戦の失敗をポーターがここで押し進まなかったせいだとしており、ポーターはその件で軍法会議により有罪となっています。
 しかしポーターがドーキンズ川を突破していたとしても、間に合ったとは思えなかったのです。戦場へと向かうロングストリートの各部隊はすでにゲインズヴィルの街路を行軍していました。ことの真相は、単にポープが戦術的な状況を把握していなかったということでした。
 とどめの一撃を加えるつもりでポープは午後一時ごろ、ジャクソンの陣地に対して攻撃を開始しました。ポープは数の上での優勢を生かせる多方面からの連携した一斉攻撃ではなく、正面攻撃をとりました。ジャクソンの側面を突く命令を発したのはその日遅くなってのことで、その時にはすでに遅かったのです。ロングストリートの軍団約三万が戦場に迫りつつあったのです。
 几帳面なロングストリートは、たっぷりと時間をとって整列させ、強固な隙のない戦列を組むために細かい命令を発しました。ロングストリートの遅れは南軍にとって好結果を生みました。側面への警戒を忘れがちなポープがちょうど完全に手がふさがったころになって攻撃開始となったからです。側面からの攻撃が開始されるや、北軍はもちこたえられず、ヘンリー・ハウス・ヒルまで押し戻されたのです。ここで態勢を整えて抵抗し、北軍はなんとか南軍による虐殺を食い止めることができました。その夜から翌日にかけて、北軍は秩序立って戦いながら退却を行い、ブル・ラン川を越えました。
 第2次ブル・ランの戦いは、潰走ではなかったが、北軍の明らかな敗北でした。死傷者は北軍16000、南軍9000でした。ポープはまもなくして司令官の職を解かれました。その後二度と前線指揮を任されることはありませんでした。リトル・マックは再びリンカンから司令官を任じられました。9月2日でした。リンカンが信じていたように、打ち砕かれた北軍を再建することのできるのは、唯一マクレランしかいなかったのです。

(つづく)

コメント

2018年
05月27日
11:14

>ある一人は「歯ブラシや箱詰めの蝋燭、ロブスターサラダ、樽入りのコーヒー、それに思い出せないいろんなものを手に入れた」と感激もあらわに書き残しています。

ボロボロになった兵士からはお宝に見えた事でしょう。
やっぱり兵站は重要ですね。

2018年
05月27日
11:21

2: U96

>櫻 弾基地さん
北軍の海上封鎖が応えてきていますからね。明日はいよいよ世界ではじめて軍艦を沈めた潜水艇ハンレー号の戦いです。ご期待下さい。

2018年
05月27日
12:53

3: RSC

リーはジャクソンを物凄く頼りにしていた様ですが、南軍は他に信頼できる将帥がいなかったのでしょうか。

2018年
05月27日
13:56

学校の世界史の教科書には 一行出てくるかどうか?と軽い扱いですが、これだけのドラマがあるのですね!! 勉強になります!!

 外国の世界史の授業でも 日本の関ヶ原の合戦なんて出てこないだろうからお互いさまでしょうけれど、その後のアメリカだけでなく世界の行く末を決める戦いになるのですから、もっと広めるべきですよね。

2018年
05月27日
14:31

5: U96

>RSCさん
ジョセフ・E・ジョンストン将軍があげられます。
りーと同郷、士官学校の同級生でした。リーが博打のような作戦をとる事が多かったのに対して、その用兵は堅実で用心深く、正面突撃を避け、敵が進軍すると自軍を引き、その途中で敵の弱点を見つけてそこに突如大兵力をぶつける指揮でした。高潔、篤実で任務に誠実に取り組み、「ジョーおやじ」と部下に慕われました。主にシャーマンと戦ったことから、1891年2月14日、シャーマンが死ぬと寒さの中帽子もコートも着用せず、その葬列を見送り、それがもとで肺炎にかかり、3月21日になくなりました。

2018年
05月27日
14:42

6: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中 さん
ありがとうございます。南北戦争はナポレオン時代のように将軍の能力で戦闘が決まるところから、経済封鎖などの近代戦へ移り変わる最後の戦争と言っていいでしょう。だからドラマがあるのです。今現在、日本で南北戦争の書籍を探そうとしたら、古書市場を当たるしかなく、高価です。

ついでながら、戦争中、熱心な南部主義者達がイギリス貴族にいました。ゲティスバーグの戦いに勝っていれば、南部の独立も諸外国から承認されたかもしれませんね。

2018年
05月27日
21:52

いつもながらの詳しい解説がすばらしいです

趣味というよりも研究に近い感想をいつも持つのですが

戦史研究とかされていらっしゃるのですか?

2018年
05月28日
04:38

8: U96

>あおねこさん
いえいえあくまで趣味です。

この執筆には2冊ほど雑誌や書籍の世話になりました。
ありがとうございます。