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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2019年
12月01日
05:13

魔窟アーカイブ;潜水艦「追躡触接反復攻撃」

 追躡(ついじょう)とは、追跡の兵術用語で、敵の概略進行方向を追跡し、適時その概位を確認し、これを反復する行動をいいます。また、触接とは、敵に近接しその動静を明らかにすることをいいます。

 漸減作戦とも邀撃作戦とも言われた日本海軍の作戦は、「潜水部隊を米艦隊主力の所在に派遣して、その動静を監視し、出撃した場合はこれに追躡触接してその動静を明らかにし、その間襲撃を反復して敵勢の減殺に努め」るものでした。つまり「追躡触接反復攻撃」です。

 それでは、その作戦は、どのような経緯で立案・確立され、そしてどのような結果となったのでしょう。

 第1次大戦終結後、1922年(大正11)年のワシントン条約により、日本海軍は主力艦(戦艦・巡洋戦艦)および航空母艦の保有量を英米5対3の比率に抑えられてしまいました。その劣勢を補うために、重巡洋艦をはじめとする補助艦(潜水艦を含む)および航空機などに期待しました。

 ところが、1930(昭和5)年のロンドン条約により、補助艦保有量も制限を受けてしまいました。そこで、米渡洋艦隊に対する邀撃作戦において勝利を得るには、潜水艦および航空機の活用により、艦隊決戦の前に敵勢の漸減を図る必要がありました。そして、少なくとも互角の形勢で艦隊決戦に持ち込もうとしたのです。

 漸減作戦を成立させるためには、長大な航続力と少なくとも20ノット(時速約37キロ)以上の水上高速力を必要としました。このため、日本海軍は二系列の潜水艦を建造しました。第1は、海大型(海軍大型)=艦隊用高速潜水艦で、1924(大正13)年に1番艦が竣工しました。第2は、巡潜型(巡洋潜水艦)=遠距離作戦用で、1926(大正14)年に同じく1番艦が竣工しました。

 一方、演習あるいは艦隊訓練においては、1925(大正14)年以降、主要研究訓練事項として、敵港湾監視、敵出動後の邀撃・追躡・索敵法が取り上げられました。そして1927(昭和2)年には、追躡触接法が加えられました。

 以上のような経緯をたどり、漸減作戦における潜水艦の用法は、おおむね確立されていったのです。

 ところが、です。演習において、監視・追躡触接・反復攻撃が困難であると指摘されたことがありました。しかし、当時の潜水部隊あるいは上級司令部においても、これらの任務を当然果たさなければならないものと信じていました。つまり潜水艦による漸減作戦は、確たる成算のあるものではなかったのです。

 1941(昭和16)年12月、ハワイ作戦において、日本の空母機動部隊の攻撃で米太平洋艦隊の戦艦群が壊滅したため、同艦隊の西太平洋進攻は起こりませんでした。そこで柔軟な発想により、艦隊決戦思想に基づく潜水艦用法の転換を図るべきでした。それができなかったところに、日本の潜水部隊が戦前からの期待に応えることができず、不振に終わってしまった根本的な原因がありました。