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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2019年
11月26日
08:11

魔窟アーカイブ:特殊潜航艇咬龍

 黒木博司中尉個人で研究していた甲標的「丁型」(後の咬龍)の開発は昭和19年に始まりました。
 この時点で、甲標的母艦「日進」は戦没しており、「千代田」と「千歳」は空母に改造されていたので、大きさに制限がなくなり艇体は拡大されました。
 黒木中尉の(19年3月、大尉に進級)の研究は、「丁型」の試作艇に多く取り入れられ、とくに楕円形の司令塔、ガラス張りの司令塔トップの風防、操縦室内の配置、機関室の配置は、黒木中尉の原案そのままでした。

 19年5月、「丁型」試作一号艇が完成しましたが、試験が終わらないうちに早々と量産が決まりました。このころ、黒木中尉は並行して開発していた「回天」の試作基の試験に専念していていました。
 そして、20年9月1日に山口県の徳山湾口の大津島に開隊した初の「回天」基地に転任しました。しかし、9月6日、回天操縦中に事故に遭い同乗していた樋口大尉と共に殉職してしまいました。「丁型」の開発関係者は皆、「黒木に見せたかった」と言っていたといいます。

 性能試験で計画以上の性能を発揮した「丁型」はただちに本格的に量産に入り、完成した艇から沖縄に自力航行で向かったのですが、初期型203~208号艇は、故障により208号艇を除いて引き返しました。また、一等輸送船に載せられ沖縄に進出した209、210号艇は戦闘に参加したものの、慣れない艇だったこともあり、戦果をあげられず未帰還となってしまいました。

 20年5月28日、「甲標的丁型」は「咬龍」と命名され制式採用されました。各海軍工廠、民間造船所を総動員し大量生産を図りましたが、構造が複雑であったことなどの要因で建造はなかなかはかどりませんでした。
 
 「咬龍」は黒木大尉の原案が多く取り入れられ、これまでの「甲標的」と比べて外見はもとより、性能も大幅に改善されていました。なかでも航続距離は、これまでとは比較にならないほど大きくなりました。それは新たに採用された五一号丁型ディーゼル機関と特G型発電機によるところが大で、最大5日間の連続行動を実現させました。
 なお、燃料の重油は艇内の空所をタンクにあてています。充電は停泊、航行中を問わず行えるように、昇降式のシュノーケルが装備されており、充電時間は9時間という資料がありますが、この数値が停泊時か航行時かは不明です。

 「咬龍」の艇内はこれまでの「甲標的」同様非常に狭く、5人の搭乗員が5日間も寝起きする余裕はありませんでした。操縦室では横になれず、また艇が小さく軽いため、操縦室以外へ移動すると艇のトリムが変わってしまい、カウンターウェイトとして反対方向へ同人数の搭乗員が移動しなければなりませんでした。
 電池室上部のベニヤ板で横になるときは前後に一人ずつ休憩を行ないます。そのため、搭乗員の体力次第で行動日数が制限される結果となり、元搭乗員の証言によると3日間が限界だったそうです。

 艇体の上部構造内部に三つのメインタンクが配置され、それを注排水することによって潜行浮上能力向上と浮上時の浮力確保に役立っています。また上部構造により凌波性能も大きく向上しています。
 主電動機には、従来の「甲標的」より小さい500馬力のものが採用されていますが、これでも最高18ノットを発揮できました。ただし、「咬龍」量産型では最微速を使用すると悪影響があったのか、最微速での使用は厳禁されました。
 
 旋回能力もこれまでの「甲標的」とは比べものにならないほど改善されています。ただし「咬龍」量産型では二重反転プロペラを採用せず、量産に適したシングルプロペラを採用したため、トルクの影響により、左右の旋回半径には多少違いがあります。
 また、このシングルプロペラは大きなピッチを採用したために、艇が航行中傾いてしまうほどトルクが大きいものでした。トルクを消すために左右の横ヒレを飛行機の補助翼のように上下逆に動かすことで傾斜を抑えることに成功しましたが、低速では効果が少なくトルクを消すことができませんでした。

 水中旋回性能については、旋回秒時を示す表が残されているだけで、水上旋回距離のような正確な数値は残されていません。この表の中には半速(0)=9.5ノット時、90メートルという数値が書かれているだけで、その他は不明です。