局地戦闘機「雷電三三型」に搭載された、五式三十粍固定機銃一型の元になった十七試三十粍固定機銃一型は昭和一七年三月、海軍航空本部(航本)より航空技術廠(空技廠)宛に「特大口径機銃」の研究の照会があり、二五mm機銃と四〇mm機銃とともに研究がスタートしました。空技廠兵器部の川北少佐、川上大尉はすでに数年前から大口径機銃の研究を進めており、二五mm機銃は中途半端であり、弾丸重量四五〇グラム、初速六〇〇m/sの三〇mm機銃を提案しましたが、用兵者の意見は二五mmよりは三〇mmとの空技廠の意見はともかく、三〇mmならば初速は速く、発射速度も大きくせよといった具合で過酷な要求が相次ぎました。しかし、要求通りの初速と発射速度の機銃を作れば、戦闘機の翼内に収容できないことは目に見えていました。
敵大型機に対してどの位の威力がいるかを確かめる爆発威力試験等が実施され、それらを元に三〇mm機銃で充分な威力が発揮できることがわかり、かつ用兵側との調整も次第にまとまり、同年八月には二五mm、三〇mm、四〇mm機銃の要求性能が決定されました。この間のやりとりを川上大尉は決死の研究努力と表現している位、大変な応酬であったらしいです。
要求性能が決定すると、それぞれ十七試二十五粍機銃、十七試三十粍機銃、十七試四十粍機銃としてただちに開発が開始されました。
三〇mm機銃は一技研廠で弾薬包と銃身設計を進め、第二火廠と協力して試験が進められました。昭和一七年五月に膅内諸元を決定、昭和一七年八月末に要求諸元の決定とともに、日本特殊鋼をして試作を行わせたと言われていますが、「兵器、研究経過概要表(戦史ー航空射撃兵器)」によれば、実際には要求性能決定の二ヶ月前の六月にはすでに日本特殊鋼で計画と試作をスタートさせていたとの事です。
三〇mm機銃は昭和一八年四月に試作銃が完成、昭和一九年六月に地上基礎実験が終了しました。これらの成功により、十七試二五粍機銃は開発中止となりました。艦載機銃と同一口径のため艦本が中心となって検討が進められました。二五mm機銃は、機銃の計画重量は、三〇mm機銃よりも重く、滑り止め的存在だったのです。
一方、十七試三十粍機銃は、引き続き日本特殊鋼製の増加試作銃で地上試験、空中試験、弾薬の耐寒試験が行われ、昭和二〇年三月に終了、制式化されたのは昭和二〇年五月といわれています(「航空技術の全貌」)。このように制式採用は五月説が圧倒的に多いのですが、海軍沿革史資料中に残る当時の公式文書によれば、「五式三十粍固定機銃一型」は昭和二〇年四月一三日に兵器に採用されたとあります。
この種の機銃の開発には一〇年かかると言われており、約三年の開発がいかに早かったかと思います。
だだし、順風漫帆とは行きませんでした。大戦末期の全ての機材にお決まりの材質低下に影響されたのか?大型部品に折損が相次ぎ、かつ給弾は発射時のごく短い時間で行う方式であった事から、給弾時間が短いために加速度が大きくなり、給弾がスムーズに進みませんでした。G型保弾子の設計/製作に長時間を要したのです。
加えて戦力化を急ぐあまり、地上基礎試験が終了した直後の昭和一七年七月には豊川海軍工廠で量産の準備に入り、量産図面決定前に試作図面で二〇〇〇挺も作ってしまいました。不具合の改造は終戦の頃には終了しつつありましたが、量産用図面の完成を待っていれば、倍程度は量産できたでしょう。
量産は日本特殊鋼が爆撃で大被害を受け、その時製造中であった増加試作銃のみで生産を中止し、生産は日本製鋼所に指名されました。昭和一九年一二月に一号機を完成させ、二〇年五月に二一挺、二〇年五月に一八挺と生産が軌道に乗ってきた所で終戦になりました。
昭和二〇年五月、実用実験をするため厚木基地用五機、鳴尾基地用一〇機の雷電を改造して十七試三十粍固定機銃を搭載しました。厚木の三〇二航空隊は搭載に反対しており、米艦載機が日本本土に出没する様になったので、対戦闘機戦も予想され、対爆撃機専用で携行弾数の少ない三〇mm機銃は無用と主張していました。一方、鳴尾の三三二空はB-29に対しては大口径機銃の搭載は必須として搭載推進派でした。三〇mm機銃の改造搭載機の配備が鳴尾基地において倍なのも、このような事情からでしょう。
朝鮮戦争末期に米軍関係者が日本特殊鋼大森工場にいた河村に三〇mm機銃の製造を打診しました。ミグ15の23mm機銃に米軍機が苦戦しているので三〇mm機銃を作ってくれないか?という事でしたが、戦後進駐してきた米軍によって必要な機械を破壊されており、作りたくとも不可能でした。図面を渡すからアメリカで作ってくれという河村の申し出に「ここで頼めば作れると思ったのに」と言って立ち去りました。