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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2019年
09月21日
03:40

魔窟アーカイブ:ニューギニアの背負子部隊

・・2日間、出かけております。ご理解下さい!

 太平洋戦争中、日増しに防勢の強くなるニューギニア方面の前線を支える補給線は、現地自活による食糧生産とともに、夜陰に乗じて舟艇・潜水艦・航空機によって敢行される小規模な決死的輸送に頼る状態となっていますが、制空権を敵に奪われているために満足な自動車網の構築が不可能なうえに、駄馬も高温多湿と餌不足の状況となり、戦線の末端までの補給は、人が担いで運ぶ臂力搬送(ひりきはんそう)以外に方法がない状況でした。
 このような状況下で昭和19年2月になると、「陸軍経理学校」では「輜重(しちょう)兵中隊」1個を基幹とした「背負子(しょいこ)」を装備した臂力搬送による補給部隊の組織的運用方法を考案して戦闘に投入しました。
 この部隊は通称「背負子部隊」とよばれ、「輜重兵中隊」や後方の兵站部隊から抽出された要員で、通常、100~300名の中隊規模が編成されました。
 編成例ですが、「輜重兵中隊」で「背負子部隊」を編成した場合、「中隊本部」の隷下に輸送に任ずる「背負子小隊」が2~6個編成されます。
 各「背負子小隊」の編成は、指揮機関である「小隊指揮班」の隷下に小隊直轄の臂力搬送の要員を支援する進路警戒のための「警戒班」と進路の伐開にあたる「伐開班」が編成され、実際の搬送のための「背負子分隊」は2~6個分隊が編成されます。
 「背負子分隊」は「分隊長」の指揮下に、荷物を背負う「背負兵」と、5名につき1名の割合で「背負兵」の隘路(あいろ)通過のサポートや搬送の交代要員として「補助兵」が設けられました
 「背負子部隊」の将兵は搬送する荷物(10~50キロ)とは別に20キロにおよぶ個人装備を携帯します。腹部保護のため、「腹巻」は、はずせませんでした。着替えの「袴下(こした)=ズボン」「襦袢(じゅばん)=シャツ」「靴下」と雨覆い兼用の「携帯天幕」「毛布(2名で1枚)」「個人用蚊帳」「飯盒(はんごう)」「水筒」と糧秣と日用品を納めた「雑囊(ざつのう)」を背負子に縛り付けるとともに、自衛用の武器として「小銃」と密林突破用の鉈(なた)をはじめとした「携帯工具」を背負子にすぐに取り外せるように、紐で「引き解き結び」でつけます。弾薬は30~120発を「弾薬盆(弾薬ポーチ)」で携行して、「銃剣」とともに腰の「帯革(ベルト)」に装着します。また、作戦地域が高山地帯の場合は「毛布」を各個に携行するほか、「襦袢」の上に重ねて着用する上衣を携帯する場合もあります。
 携帯する糧秣としては、主食の「精米」ないし「圧搾口糧」と、調味料の「携帯食塩」「携帯粉味噌」「携帯粉醤油」等と、飯盒炊爨時の炊事煙予防のために缶入りの「携帯燃料」をもつほか、衛生面から「マラリア薬」「クレオソート丸」「浄水剤」や防蚊用クリームである「防蚊膏」の携行が奨励されました。
 しかしながら、実際は戦況の逼迫による物資不足により、規定の装備の「背負子部隊」の存在は皆無でした。
 昭和19年2月に「陸軍輜重兵学校」が新型の「背負子」を紹介しております。それは背負子本体と「杖」より構成されていました。杖は移動補助のほかに休止時には、防湿のために背負子に立てかけることで直接地面と接触しないようにできました。背負子本体は軽量で丈夫な現地材料である「南洋桐」等を用い、現地製造を考慮して製作時には「釘」はいっさい使用せずに、左右の「支柱」に3本の「支木」を差し込むとともに、芭蕉の皮で作った小縄を巻き付けます。「背負紐」や「辱」とよばれた背当ても芭蕉の皮を利用して製作されました。
 背負子の荷物は雨と湿気より護るために「携帯天幕」で覆うとともに、対空警戒のために偽装の徹底が必要とされました。
 とくに地形の険しい個所の通過に際しては、「補助兵」が「背負兵」の手を引くなどのサポートを行うほか、夜間行動では夜間識別のために白タスキや光苔が利用されたほか、遭難防止のために兵員各個を紐で連結する場合もあります。
 また、「背負子」以外にも重量物運搬のために兵員2名で搬送する「天秤棒」や、砲弾や機材運搬のための布製の「リュックサック」も多数が用いられました。
 背負子部隊の1日の行程は、1日6時間の実働時間で12~18キロの進軍を基準としました。
 ただし、地形の激しい地区での特異な例としては、標高1000~2000メートルで傾斜が20~30度では1時間に1キロ、標高2000~4000メートルで傾斜が30~50度では1時間に600メートルの行軍が目安とされ、密林通過の場合は、伐開が必要でない場合は1時間に2~3キロを基準として、伐開が必要の場合は1時間に400~500メートルが基準とされました。
 「背負子部隊」での小休止は、30分ごとに10分で、地形によっては10分ごとに2~3分の息継ぎ休憩を行う場合もあり、傾斜が急な地帯では20~30歩進むごとに1~2分の息継ぎ休憩をとるケースもあります。
 「背負子部隊」の1日の行動は、午前4時30分の日の出と同時に前日に炊爨した「朝食」を携行して出発し、午前5時30分から6時までの大休止で「朝食」をとり、午前9時30分から午後1時までの大休止では、「昼食」とともに日中の暑さを避けるための休憩と背負子のメンテナンスと「夕食」の炊事を行い、午後4時に目的地に到着した時点で、「夕食」と宿営準備を行うとともに翌日の「朝食」を炊爨して宿営します。
 注意しなければならないことは、制空権が敵にあるため、「炊事煙」を絶対に出さない(飯盒を土に埋める等して)こと、宿営準備と薪収集や洗濯のために午後4時までに目的地に必ず到達することでした。

コメント

2019年
09月21日
09:01

1: 恋刀

U96師へ

お早う御座居ます、失礼いたします。

想像を絶する過酷さは伝わってまいりました!

いつも 有り難う御座居ます
失礼いたしました。

2019年
09月21日
18:52

兵站能力の乏しい中、精一杯アジアの独立の為に戦っていらしたのですね。

2019年
09月21日
21:37

3: U96

>恋刀さん
はい。米軍は道を作りながら、トラックで補給していたのに。

2019年
09月21日
21:39

4: U96

>鉄砲蔵さん
インド人は日本のお母さんは大変な難産をして、体を壊してしまった。しかし、その子供たちはすくすくと育っていると言っておりましたね。