晋が益州で多数の軍艦を建造していたために、長江の下流の呉の最前線である建平(湖北省巫県)には長江の流れをおおうほどの大量の木くずが流れてきました。呉の建平太守 吾彦は上流で軍艦が建造されていることを察知し、呉帝 孫晧に木くずを示して、荊州の入口である建平の兵力を増強することを求めました。しかし孫晧はこの提案に従いませんでした。それでも吾彦は艦隊の進撃を阻止するための対策をたてて、晋の艦隊を待ち受けました。
荊州において着々と準備を進めていた羊祜が呉征服のためにたてた作戦計画は、次のような、長い戦線に対して分かれて進撃して呉軍を分散させ、益州で養成した水軍をその手薄になった所に投入するというものでした。
1、荊州の軍は江陵へ進撃させる
2、平南将軍指揮下の軍、予州の軍は夏口へ進撃させる
3、徐州、揚州、青州、兗州の軍は秣陵(建業)へ進撃させる
4、これらに対応するために呉軍が分散して防御が手薄になったところに、梁州、益州の水軍を奇兵として長江を進撃させる
280年の呉征服戦では、この作戦がほぼそのまま採用され、調整を加えて実行されました。
278年、羊祜は病に倒れ洛陽に帰りました。司馬炎は張華に命じて、羊祜に呉征服のための最後の意見を問わせました。この時の羊祜の意見は次の2項にまとめることができます。
1、暴虐な政治を行なっている孫晧が呉の君主である今のうちに、呉の征服を実行するべきである。孫晧が死んで有能な君主が即位したなら、どのような大軍をもってしても長江を渡ることができなくなる。
2、任務に適した人を選んで使うべきである
278年12月27日、羊祜は作戦の実行を見る事なく病死しました。
(つづく)
コメント
03月14日
21:01
1: RSC
孫晧の次になる様な人物が果たして呉にいたのでしょうか・・・。
03月14日
21:11
2: U96
>RSCさん
太子の孫瑾ではないでしょうか。
03月15日
06:15
3: 退会済ユーザー
戦いは数だよ兄貴!(おい)
03月15日
14:45
4: U96
>倶利伽羅いちろうさん
ビグザム量産の暁には連邦など、あっという間に粉砕してくれるわ!
03月15日
19:47
5: CAOCAO
スサノオノミコトが上流から箸が流れてきたのを見て、人が住んでいると悟ったのと比べると随分と物騒な話ですね
……古事記が作られたのは8世紀ですし、演技ではなく正史に木屑の件が記載されていたとしたら、スサノオのエピソードはそれを参考にして作ったものかもしれない…などと思ってしまいました
03月15日
20:33
6: U96
>CAOCAOさん
500年も隔たりがありますが、古事記は語り部の稗田阿礼が記憶していたのを太安万侶が記録したものなので、もっと遡ることができるでしょうね。