陸抗はもともと病気がちで、自分の死後のことを憂いて、荊州防衛の最重要拠点の西陵に、首都に配置されている精鋭3万を移すことや、荊州の彼の指揮下の兵力が3~4万に低下しており、それを8万まで増強するように呉帝 孫晧に意見を具申しました。しかし孫晧は外敵よりもむしろ内部から第2の歩闡が出るのを恐れ、強大な軍事力を持った人物が地方で反乱を起こすことを警戒していました。そのために、陸抗の意見をまったく無視し、精鋭を建業に集中したままにしていました。陸抗は着任からわずか4年後の274年に病死し、彼の直属軍は彼の5人の子に分配され、陸抗の後任として荊州の諸軍をまとめて指揮する人物は任命されませんでした。
陸抗の死によって呉には恐れるに足る人物がおらず、荊州の呉軍を統一して指揮する人物もいないことを確認した羊祜は、呉征服の好機と判断して、276年に呉への全面的な侵攻を提案しました。しかし以前と同じように多くの高官が反対したためについに採用されませんでした。
(つづく)
コメント
03月11日
19:33
1: 闇従(あんじゅ)
呉の滅亡まであと4年、4年しかないのだ!(ヤ〇ト風)
03月11日
19:46
2: RSC
暗君孫晧の本領発揮ですね・・・
03月11日
19:46
3: U96
>闇従(あんじゅ)さん
まずは羊祜は呉の水軍と互角に渡り合える大艦隊を建造しはじめ、呉侵攻を虎視眈々と狙うことにしました。
03月11日
19:48
4: U96
>RSCさん
自業自得ですけど・・・
03月11日
20:17
5: 闇従(あんじゅ)
呉の強みは以前書かれていた通りの水軍力ですから、
そこの優位性が無くなるとしんどいですね‥さらに投降者続出すること請け合い
03月11日
21:19
6: U96
>闇従(あんじゅ)さん
はい。晋は巨大な軍艦をもって呉の水軍にあたろうとし、2千人乗りの軍艦を建造します。
03月12日
20:47
7: CAOCAO
死後に勢力が分割されて衰退、というのはよくあるパターンですね
軍の配置よりも、長子に全てを相続させるように言い残すべきだったのではと思います
まぁ、そのお陰で子孫が西晋の「三張二陸両潘一左」と言われる詩人たちの中に名を残せたのかもしれませんが…
03月12日
21:16
8: U96
>CAOCAOさん
現在でもヨーロッパの貴族の次男は家を出ていかねばならないそうですね。大抵、冒険家や探検家になるとか・・・ヒラリー卿もそのパターンでしたね。