264年、呉では呉帝孫休(明帝)が崩御し、孫晧が即位しました。即位の前には才能があり、学問を好むとの評判がありましたが、即位するとまれに見る暴君となりました。酒と女を好んで乱れた生活を送り、猜疑心が強く多くの臣下が処刑されました。このため粛清を恐れた皇族や重臣のなかから晋に投降する者が多く出ました。また度重なる土木工事と重い税は国力を疲弊させ、各地に相次いで反乱が発生しました。
しかもその即位後、269年に丁奉、陸凱、270年に施績が死亡しており、呉では名将と呼ばれた人材を相次いで失いました。呉に残された最後の名将が陸抗(陸遜の次男)でした。彼は施績に代わって荊州の防衛を担当し、楽郷に根拠地を置き、ただ1人で軍事の面において呉を支えていました。
(つづく)
コメント
02月26日
20:57
1: RSC
三国志のワースト男、孫晧の登場ですね。
02月26日
21:42
2: 退会済ユーザー
諸葛格(諸葛謹の息子)はもうこの時代では故人かな?
02月26日
21:50
3: U96
>RSCさん
はい。晋では孫晧が皇帝の内に攻略すべしと言われました。
02月26日
21:53
4: U96
>倶利伽羅いちろうさん
残念ながら、253年に亡くなりました。
02月27日
19:55
5: CAOCAO
孫皓が暴君になったのは岑昏の存在も大きいですね
劉禅のもとの黄皓や秦の趙高もそうですが、暗君+佞臣のコンビで国が滅んだいい例かと思います
02月27日
20:44
6: U96
>CAOCAOさん
確か、晋軍が建業に来襲する前に呉軍兵士に斬られたのでしたよね。人は権力を持つと、周りをイエスマンで固めてしまう宿命なのでしょうか?