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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2019年
01月29日
19:01

岩崎城と長久手の戦い(その7)

 楽田から三河へ進撃となると、小幡、長久手、岩崎と経て境川を渡って拳母に入る訳ですが、隠密行動上、利用できるのは脇街道であり、その幅は畦道と変わらない、違いは畦道が野壺で行き止まりになるのに対して、細々ながらも続いているということであり、馬一頭が通れるだけの道であるから二万人が進むとなればまさに長蛇の列です。先頭には池田恒興が立ち、最後尾には三好秀次の隊が控えていたが、行軍の列は二里以上にも及び、相互の連絡も容易につかない状況でした。
 恒興の別動隊の情報は、出発した日の午後には既に小牧山の家康のもとに届いていました。農民からの通報があり、家康が偵察員を出して確かめると容易に確認がとれました。丸っきり筒抜けになっていたのですが恒興、秀次は知りませんでした。
 前日に既に家康に探知されていることも知らず、恒興や秀次は油断しきっていました。敵地を隠密行動しているのであるから、用心に用心を重ねていて当然なのですが、秀次は見張りも立てず、物見も出さず、長久手の白山林という窪地で朝食を兵に取らせていました。徳川方は一万三千の兵で夜のうちに小牧山を出て、羽柴方の別動隊に対する攻撃行動に入っていました。
 先ず、大須賀康高、水野忠重、榊原康政ら四千五百の兵が、白山林の秀次軍に対して奇襲をかけたのです。この部隊の道案内を岩崎城主丹羽氏次が勤めたといいます。自軍よりも遥かに少ない人数による攻撃ながらも、油断している上に道なりに長く伸びていた秀次勢は一気に崩れ、敗走の態勢になってしまいました。
 秀次勢を追った徳川軍は勢いに乗ってそれに続く堀秀政隊に襲いかかったが、戦さ上手の秀政は敵襲を既に知っていて迎撃態勢に入っていたので、徳川軍は敗退し、康政などは命からがら逃げ出すような有様でした。が、これを潮時と見た堀秀政は楽田へ退却を命令しました。この為、先鋒の池田恒興と森長可は戦場に取り残されることになりました。堀秀政の離脱を冷たいというのは当たりません。この時代の戦さ上手とはこういうものであり、味方の為に自分が犠牲になるのではなく、自軍の損害を最小限に食い止める才覚が大切でした。
(つづく)

コメント

2019年
01月29日
20:50

1: RSC

堀秀政は信長の直臣の一人ですね。秀次の過労を務めていた田中吉政が単騎で現れた状況から、敗戦の様子を見て取ったそうですが。

2019年
01月29日
22:01

2: U96

>RSCさん
それは存じませんでした。教えて下さり、ありがとうございました。

2019年
01月31日
06:22

3: 退会済ユーザー

彼等が個人的に親しかったり恩義があったりしたら
徹底前後の状況も変わったのでしょうか?
・・・・

2019年
01月31日
15:54

4: U96

>倶利伽羅いちろうさん
個人的に親しくても自分の兵がかわいいでしょうね。ついでながら、御恩と奉公という関係はこの頃、崩れておりました。皆、生活のためにやむなく秀吉や織田信雄に属して働いていただけです。このため、命をかけてリーダーを守ろうという気はありませんでした。