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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2019年
01月11日
18:22

岩崎城と長久手の戦い(その5)

 秀吉は池田恒興を優遇していたのですが、恒興自身に果たしてどれだけ微妙な政治心理面での駆け引きが分かっていたかといえば、たぶん全然分かっていなかったと思われます。それが分かっていれば、自分が居てやるだけで秀吉の利益になると大様に構えて、戦場での軍功など追わなかった筈です。分かっていなかったので、恒興は美濃から尾張へ攻め込み、犬山城を奪うという手柄を立てました。
 徳川方は、まさか恒興が一手で木曽川を渡って寄せてくるとは思ってもいなかったので、犬山城の守りは手薄で、あっさり陥落してしまいました。恒興の戦略眼の確かさというよりは、素人臭い無謀な突入が戦いの玄人である家康の意表を突いた形でしたが、これにより、家康が当初に持っていた美濃進出という戦略は崩れ、犬山に備える為に小牧山付近に野戦陣地を作って羽柴方の南下を防ぐという守りの形に入らざるを得なくなってしまいました。
 犬山に着陣した秀吉は、小牧北方の楽田まで進出して、柴田から犬山にかけて広大な陣地を築いて小牧山を圧迫する形をとります。羽柴方は伊勢方面でも攻勢に出て、織田信雄の属城を次々と落としていたから、情勢としては優位であり無理に動くことなく、伊勢方面で押して行けば家康はじり貧になるのは目に見えていました。ところが、この状況下で、恒興が別動隊を作って長駆三河を突き岡崎城を占領しようと言い出したのです。卓越した戦略眼の秀吉から見れば児戯にも等しい作戦でしたが、相手が信長の乳兄弟の恒興だけにむげに却下もできず、処置に困ることになりました。
(つづく)

コメント

2019年
01月11日
22:02

‥池田恒興は生きているからこそ意味があったのに‥

2019年
01月11日
22:08

2: U96

>闇従(あんじゅ)さん
はい。結局、秀吉は兵力を二万に拡大して作戦を許可しますが、いざというとき、池田恒興を守ろうとする兵はおりませんでした。見事に潰走しました。