おたくの為のSNS おたくMk2

U96さんの日記

(Web全体に公開)

2018年
12月25日
19:15

ロンメルはパスタを好んだか?

 「砂漠の狐」と呼ばれたエルヴィン・ロンメル元帥が服毒自殺を強要されてから70年余、彼を無謬の名将とするような伝説も、色褪せてきました。戦略次元の事象に理解が少ないこと、補給の軽視、ヒトラーに引き立てられて、軍の表舞台に上がってきたことといった負の側面があきらかになり、ロンメルといえども、等身大の評価の対象にされたのです。
 しかしながら、騎士道精神や厳しい禁欲といった、ロンメルの個人的な美徳はなお否定されていないといってよい状況です。特に、彼の日常生活がスパルタ的であったことは、人口に膾炙しています。例えば、ドイツアフリカ軍団の情報将校を務め、ロンメルに親しく仕えたハインツ・ヴェルナー・シュミットは、このように回想しています。「ロンメルその人は、食事に関して控え目で、食べ物にも不平をこぼさなかった。彼は兵隊と同じ割り当てで生活しているものと思っていた。だいたい、食卓に出るものは、缶詰のイワシ、まずい缶詰のソーセージ、パン、それから例の『老いぼれ(イタリア製牛肉缶詰につけたあだ名。ラベルのAMがAlter Mann(老いぼれ)の略だというのである。牛肉が固くてまずいことに由来している)』の他には、ほとんど何もなかった。唯一の贅沢といえば、社交上、特別の場合に、一杯のワインを飲むぐらいのものだった。煙草は、まったく吸わなかった。事実、彼とその好敵手モントゴメリーは、質実剛健な生活態度の点で不思議なほど相似ていた」。
 こうした記述は、他の文献にも多くみられます。
 ところが、ここに、ロンメルはパスタを好み、特別につくらせていたと証言する者がいるから、「砂漠の狐」の質素な生活という伝承も揺らごうとしています。
 彼の名はヴァルター・シュピターラーといいます。シュピターラーは、1918年に南チロルに生まれました。イタリア領ではあるが、ドイツ系住民が多数存在する地方です。ヒトラーとムッソリーニが手を結ぶまで、独伊の係争地でした。シュピターラーは、国籍上はイタリアに属し、兵役に服したのも、トレント師団でした。
 1939年12月、イタリア軍を満期除隊したシュピターラーは、南チロルのドイツ系住民に関する独伊協定に基づき、ドイツに移りました。しかし、シュピターラーが帰化したドイツはすでに英仏相手の戦争に突入していました。彼も1938年のクリスマスの直後に召集を受け、今度はドイツ国防軍に勤務することになりました。しかしながら、このような生い立ちから、イタリア語とドイツ語の両方に堪能だったことから、1941年までに軍曹に進級していました。シュピターラーは、ドイツが北アフリカ戦役に乗り出すや、先遣スタッフの一人として、まずイタリア、ついで、北アフリカに派遣されたのです。このとき、シュピターラーは、最初の2週間、「特別指導官(ゾンダーフューラー、軍属の階級で大尉相当)」と交代するまで、ロンメルの通訳を務めたのです。
 彼のロンメルに関する第一印象は、広く伝えられているイメージを裏打ちするものでした。将校に対しては、独伊軍のいずれであろうと、例外なく厳しいものでした。「ロンメルは自分自身に期待することを、同じく将校たちにも期待した。もし、将校が後方に引っ込んでいたら、また、実際にそうしているところを見つかったら悲惨なことになっただろう!下士官兵に対しては、彼は非常に親切だった」「ベルサリエーリ(イタリア軍のエリート軽歩兵部隊)を含む最前線の部隊は、ロンメルの訪問を心から歓迎した。彼は、いつでも何かしら持ってきてくれた。例えば手紙だ。ロンメルは砲撃にもひるまなかった。ただ、他の者に聞いたところによれば、戦争後半には、戦闘機を非常に恐れたということだった」。
 しかしながら、シュピターラーの証言で興味深いのは、このあとです。通訳の任を解かれたのちも、ロンメルのそばで勤務していたシュピターラーは、ある権限を与えられました。任務の一環として、イタリア軍の主計部に行き、パスタを購入してくることができたというのです。それには、ロンメルの好物がパスタだと言うのです。
 「ロンメルは、司令部外に旅行に出るときには、パスタを食べた」「司令部にいるときには、彼は、兵士と同じものを摂った。そのなかには不幸にも、数回供されたラクダの肉も含まれている。しかし、旅に出るときには、私が、パスタ、トマト、パルミジャーノ・チーズ、オリーブ・オイルの購入を仰せつかったものである」。
 もしも、この発言が事実だとしたら、ロンメルは司令官の特権を使って、好物を調達させていたことになります。質朴なロンメル像と、おおいに食い違う話です。
 しかしながらシュピターラーの証言には、ある曖昧さがあります。「司令部外に旅行に出るとき」「旅に出るとき」とは、どういう場合を指しているのか?ロンメルの北アフリカでの日常は、以下のようなものでした。早朝に起き、司令部で状況を把握し、留守を参謀たちにまかせると、最前線を視察してまわる。当然、食事も兵士と同様のものと思われます。そんなところで、調理に多くの水を要し、手間暇もかかるパスタをつくれと命じたりすれば、なんたる我儘勝手かと批判されたろうし、それに関する証言や記録も残っているはずです。
 だとすれば、「旅行」というのは、そのような前線視察のことではなく、イタリア軍首脳との協議のため、後方の高級司令部に赴くという意味ではないでしょうか。それならば、イタリアの将軍・参謀たちを迎えての会食ということも多々あっただろうと推測され、その際にパスタを供したとしても不自然ではない。
 むろん、ロンメルも人の子、あるいは、そうした機会に、好物のパスタをつくらせ、口福を味わうという、ささやかな特権を行使していたのかもしれません。そうだとしても、ロンメルの醜聞などということにはならず、むしろ、彼の人間味を感じさせるエピソードではないでしょうか。

コメント

2018年
12月25日
19:40

1: RSC

案外現地でたまたま手に入ったパスタをロンメルが一回だけ食べていた事が独り歩きしただけかも。

2018年
12月25日
19:52

2: U96

>RSCさん
かもしれないですね。一回くらいはいいでしょう。

2018年
12月28日
23:18

3: k-papa

ドイツ人自体があまりそんな嗜好も無いような気がしますが。
エルヴィン・ロンメル、個人的には名将だと思うし、ファンです。
でもアフリカ戦線、結局負けたからなぁ・・・。

2018年
12月29日
04:48

4: U96

>k-papaさん
私もファンです。著書の「歩兵は攻撃酢する」が翻訳されたので買いました。エル。アラメインの戦いは彼の得意とする機動戦ではなく、ガチガチの陣地戦でしたからねえ。それにしてもスエズを抜けて、トルコまで進出して、独ソ戦の同胞と合流するという構想はさすがに無茶だと思います。