バンクス少将がジャクソンをはね返したことでリンカーンはジャクソンの軍を孤立させ、殲滅することができると思うにいたりました。そこでリンカーンはフレデリクスバーグのマクダウェル少将の軍団に西進してジャクソンの退路を断つことを命じました。北と南からの優勢な軍勢によって「石壁のジャクソン」を細長い渓谷に閉じ込めようというのです。
マクダウェルをジャクソン追討に送ったこの決断は、二つの点で不得策でした。第一にジャクソンを捕捉するためには、マクダウェルの兵は当のジャクソンよりも長い距離を、より悪い道を進まなければならない。第二に、これによりマクダウェルのマクレラン総司令官の軍との合流が不可能となり、マクレランは四万の増援を手にしそこなったのです。
この序盤戦を切り抜けたジャクソンは、南に急行してジョン・C・フリーモント指揮するより小規模な北軍部隊に対処することにしました。フリーモントはウェストヴァージニアからシェナンドア渓谷へと向かっており、その目標はヴァージニア中央鉄道沿いにあるスタントンでした。ジャクソンは兵を南へ向け、鉄道を使ってスタントンに至り、そこから西進して5月8日にマクダウェルの戦いでフリーモントの分遣隊を破りました。
北軍にとってジャクソンは全く神出鬼没でした。騎兵かと思うほどの行軍スピードで「徒歩の騎兵」とのニックネームを付けられるほどでした。5月23日にはフロント・ロイヤルの北軍守備隊を攻撃、これを破りました。5月25日にはウィンチェスターのバンクスの主力に襲いかかりました。バンクスは北方、はるかポトマック河畔まで逃走しました。その間、ほとんど常にジャクソンがすぐ背後に迫っていました。
バンクスの追撃を打ち切ったジャクソンは、今度は、シェナンドア渓谷の南端に向かいました。そこでは北軍がジャクソンを孤立させるべく行軍していました。フリーモントが再度西方から接近し、東からはマクダウェルの軍団の一個師団がジェームズ・シールズ准将指揮のもと向かっていました。ジャクソンはまず6月8日、クロス・キーズの戦いでフリーモントに打撃を加え、それから6月9日、ポート・リパブリックでシールズにあたりました。
三カ月に満たない期間にジャクソンは六つの戦闘を戦い、そのうち五つで勝利しました。しかし、より重要なことは、6万近い北軍がジャクソンを追い詰めようとする無益な試みにかかりきりになったということです。今やジャクソンの任務は、北軍との接触を断ち、渓谷戦線を離脱して司令官リーに増援をもたらすことでした。
6月23日、ジャクソンは秘かに南部連合首都リッチモンドを訪れ、新司令官リーと初めて会談しました。
ジャクソンは礼儀正しく、寡黙、厳格、真面目で正義を愛し、民情に気を配り、捕虜を手厚く取り扱いました。非常に信仰心があつく、事情の許す限りは一日も礼拝を欠かすことがありませんでした(ジャクソンの旅団は南軍の中でも最も「抹香くさい」集団でした)。
そのジャクソンも1863年5月1日のチャンセラーズヴィルの戦いの勝利のうちに味方警備兵の誤射を受けました。左腕の切断後、一時的に回復の兆しを見せたものの、感染症から発熱しました。リーは戦うがごとく神に祈りましたが、5月10日に肺梗塞を起こして亡くなりました。ジャクソン戦死の報が伝わった時、彼を知る北軍将兵も涙を流しました。最後の言葉は「川を渡って、木陰で休もう」だったそうです。
(完)