昭和17年、ミッドウェー島攻略に呼応して、陸軍は海軍と共同で米軍の逆襲阻止のため、北海の西部アリューシャン列島の攻略を決定し、旭川の「歩兵第二十六聯隊」の穂積松年少佐を指揮官として「独立歩兵第三○一大隊」と「独立工兵第三○一中隊」を基幹とした総兵力千百四十三名の「北海支隊」が編成され、アッツ島の攻略作戦が行われました。
六月七日の上陸当初の食事は輸送船より配られた握り飯の弁当で、原住民アリウト族の集落がある要衝の「チチャゴフ」を占領後、翌日にはじめての食事が炊き出されました。
六月八日の献立ですが、朝食は「飯」と「味噌汁(乾燥野菜入り)」、昼食は「飯」と副食に塩鮭の切り身を煮たもので、夕食はやはり「飯」と「味噌汁(乾燥野菜入り)」と副食に塩鮭の切り身を煮たものでした。乾燥野菜は繊維質の摂取のためですが味は悪く、また副食の塩鮭の切り身を煮たものも、その味の悪さから将兵は、「猫も跨いで通る」という意味合いで「猫またぎ」とよんで忌み嫌ったそうです。
余談ではありますが、仮面ライダーを演じた藤岡弘氏がインタビューで、当時、撮影所で配られた弁当をスタッフ達が「猫またぎ弁当」とよんで忌み嫌っていた事を証言していました。鮭の切り身と沢庵だけの弁当だったそうです。どうやら1970年代まで「猫またぎ」の伝統は受け継がれていたようです。
話を戻します。六月八日の昼食の時点で、「猫またぎ」を避けるために、下士官・兵の中には流木と釘で即製の銛を作り、海岸で「鰈(かれい)」をとって海水で煮て鰈汁を作る猛者も出ました。
白夜のため、食事時間は三日目には、朝食が午前二時、昼食が午前八時、夕食が午後二時になり、就寝が午後六時と定められました。
アッツ島では占領後の自活が検討され、占領直後より「衛生班」により飲料水の検査と食用可能な野草の調査が行われました。水は赤黒い鉱水であり、渋みがあるために飲用には「濾水器」の使用が規定され、野草は「あざみの葉」、人参の葉に似た「コジャック」、蕗(ふき)に似た「プスキー」、「黒百合の根」等がありました。
海産資源は豊富で、「鱒(ます)」「鰈(かれい)」「鱈(たら)」「カジカ」「ホッケ」「オヒョウ」「昆布」が豊富にとれたほか、川では「岩魚(いわな)」のはかに七月の産卵時期には「虹鱒」や「アメ鱒」がとれました。「鱒」は回虫が多いために徹底した加熱処理が規定されたほかは、「岩魚」のフライや「平目」に似た味の「オヒョウ」の刺身や「ウニの殻焼き」など、素材を生かした現地料理が創作されました。
また、海鳥では、「エゾピリカ」とよばれる鳥がいて、「肉」と「卵」が提供されました。この「肉」と「卵」と「あざみの葉」と「コジャク」を入れた「オムレツ」も食卓に並びました。
このような現地調達のほか、野菜の生産も行われました。内地より持ち込んだ「大根」「小松菜」「蕉」の種子を原住民が農耕地に使用していた跡地に植え付け、畑を作りました。また、冬季には、幕舎で筵(むしろ)を用いたモヤシの栽培も計画されました。
日本軍のアリューシャン方面進出に脅威を感じた米軍は、アッツ島とキスカ島への航空偵察と爆撃を強化するようになります。これに対して日本軍は「峰本十一朗少将」を指揮官とした「北海守備隊」を創設することになり、キスカ島に「北海守備第一地区隊」を設置して防備増強を行ったのにあわせて、昭和十七年九月にはアッツ島にも「北海守備第二地区隊」を設置して、「米川浩中佐」指揮の米川部隊を増援として送り込み、島の防備増強に乗り出しました。
この時期になると、内地からの補給は米軍の妨害で困難になり、ガダルカナル同様の「モグラ輸送」と呼ばれた潜水艦による補給が始まりました。
守備隊は保有している約一ヶ月分の食料を来年春までの約六ヶ月間食い延ばすこととなり、将兵の一日あたりの糧秣は約一合という状況になります。
また、冬の到来とともに野草の確保はツンドラの下の「苔」しか採取できなくなり、唯一豊富な海産資源確保のために、各小隊単位で十五名編成の「漁労班」を編成しましたが、米軍の空襲のために、ついに表立った「漁労班」の活動は禁止されました。
また、厳しい冬季に備えて「三角兵舎」の設営が始まりましたが、全員を収容できないうちに米軍との戦闘が始まる事になるのです。
四月十七日、海軍の潜水艦に乗って、アッツ島の守備隊の新部隊長「山崎保代大佐」が赴任して、総兵力二千五百七十八名の戦闘配備が始まりました。
新たな戦闘配置は四月三十日に発令されました。守備隊は「チチャゴフ湾(熱田湾)」の「熱田湾小地区隊」、「ホルツ湾(北海湾)」の「北海湾小地区隊」、「マサッカル湾(旭湾)」の「旭湾警備隊」の三隊に編成して、「北海湾小地区隊」近辺に建設途中だった全長千メートル・幅百メートルの飛行場守備を主眼に「熱田湾小地区隊」と「北海湾小地区隊」を重点守備地域にするとともに、山岳地帯に抵抗陣地を構築して「旭湾警備隊」を後退配備にするという布陣をとりました。
五月十二日深夜、濃霧を突いて米海軍の支援のもと米陸軍第七師団の二万の将兵が上陸を開始しました。守備隊は当初より戦略持久戦を展開したために犠牲は少なく、二十二日の時点で二千名ちかくが生存していましたが、二十二日より米軍の大攻勢を受けるとともに、しだいに弾薬・糧秣の不足により戦局は悪化し、防御拠点はつぎつぎ破られていきました。
弾薬を消耗した後は夜襲と斬り込み以外はできませんでした。
最後の抵抗として、救援到着まで「サラナ湾」から「駒ケ岳」間の狭隘な地形のつづく天然の要塞の「鳥原地区」に立て篭もる案があったものの、補給の目途が立たないため、長期の持久は不可能となりました。五月二十九日、山崎部隊長以下約百名が最後の突撃を敢行して玉砕しました。
コメント
12月06日
21:13
1: RSC
ねこまたぎ、を検索すると、関西圏では「猫が口にできる部分がないくらい、身のない魚の骨(綺麗に食べた骨を指すらしい)」、江戸時代のマグロのとろも腐りやすく「ねこまたぎ」、夏のウグイも味が落ちるため「ねこまたぎ」というそうです。
12月06日
21:29
2: 退会済ユーザー
猫またぎ弁当は藤岡さんの著書に書いていたのを思いだしました。
ウルトラマンの撮影現場の方が予算も多いから羨ましい~~
・・・だったかな?
アッツ島は何年か前にコーエーのシミュレーションゲームの
「提督の決断」を遊んだ時になんでこんな離れ小島に
少ない人員を割いて送り込むんだよ~~~~~
・・・と恨み節ふいてました。
米軍が来ないうちに全員撤退させて太平洋中央や南方に
配備し直した記憶が・・・
12月06日
21:44
3: U96
>RSCさん
豆知識ありがとうございました。
私は関西在住でしたが、知りませんでした。
12月06日
21:47
4: U96
>倶利伽羅いちろうさん
そうですね。同じ北方でもキスカ島は脱出に成功しているのでしたよね。