スコット名誉中将の軍事上の助言(1、まず陸海共同の侵攻部隊でミシシッピィ河口のニューオリンズ市を攻略し、可及的速やかに南部の全港湾を封鎖。2、2つの大軍を編成し、1軍はミシシピィ河を南下して、南部連合の西方諸州を東方諸州から切り離す一方、他の軍でリッチモンドに圧力を加えて南軍の主力をヴァージニア州に引き付ける)には本質的な説得力がありましたが、リンカーンは、75歳の古武者に実戦での北軍の指揮を任せるのが適当でないことは認識していました。スコット自身、自分の限界は承知しており、自らはワシントンに残って各方面軍の調整にあたるつもりでした。実戦指揮のトップとして、スコットはアーヴィン・マクダウェル(ウェストポイント士官学校で南軍のボーレガードと同級)の任命を強く推したのでした。マクダウェルに連隊より大きな部隊の指揮経験がないことは確かでしたが、アメリカ人でそのような経験を持つものなどほとんどいなかったのでした。
少将に特進とされたマクダウェルは、ワシントンにあふれている雑多な民兵の集合体を軍隊に仕立てるという任を負わされたのでした。その上、国民と政界の両面から、反乱鎮圧に向けただちに攻勢をかけるという圧力にさらされることにもなりました。「ニューヨーク・トリビューン」紙は毎日のように「軍勢をリッチモンドへ」とせき立てていました。マクダウェルは、配下の軍はまだ未熟で攻勢をかけられる状態にはないと抗議したのでしたが、大統領の返事はこうでした。
「いかにも我が軍は未熟。だが未熟は相手も同じだ。敵も味方も未熟なのだよ」
(つづく)