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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争

2018年
11月01日
18:15

クリミア戦争史(その55)

 最後に残ったのはポーランド問題でしたが、ポーランド問題は最後までパリ会議の議題に上りませんでした。停戦前から始まっていた連合国間の外交交渉の席でポーランドをロシアから独立させる構想を最初に提起したのは、フランス外相のアレクサンドル・ヴァレフスキ伯爵でした。ヴァレフスキはナポレオン一世とポーランドの愛人マリア・ヴァレフスカ伯爵夫人の間に生まれた庶子と言われています。セヴァストポリ陥落後、ナポレオン三世はポーランドのために何かしたいと考えていました。ポーランド王国の独立は、国民国家の独立を促進することによって1815年体制を打破しようとしていたナポレオン三世の新欧州構想の一部でした。当初、ナポレオン三世は立憲君主制ポーランド王国の復活を目指すアダム・チャルトリスキの計画を支持していました。立憲君主制ポーランドはウィーン条約によって設立を認められた王国でしたが、ロシアの圧力で自治と自由を制限されていました。しかし、和平会議の準備段階でフランス以外の関係国がポーランドに関心を示さないことが判明すると、ナポレオン三世はポーランド語の擁護、ポーランドのロシア化阻止などの範囲に限ってチャルトリスキを支持する方向にその立場を後退させました。しかし、ロシア代表のオルロフはこれさえも認めず、ポーランドに対するロシアの権益は1815年の条約に基づくものではなく、1830~31年のポーランド蜂起をロシアが鎮圧した事実に由来すると主張しました。イタリア問題をめぐってオーストリアと対決する場合に備えてロシアの支援を必要としていたナポレオン三世は、対露関係の改善を優先する立場からポーランド支援を断念しました。結局、パリ会議でポーランド問題が議論されることはなかったのでした。ロシアと対決する機会があればどんな問題も見逃すことのなかったパーマストンさえ、「ポーランド王国の再建をロシアに要求することは得策とは言えない」として、クラレンドン外相にポーランド問題を持ち出さないよう指示しました。
(つづく)

コメント

2018年
11月01日
19:48

ポーランドの運の悪さと言うか悲しさは、歴史に感心がある人達には結構有名ですものね。

2018年
11月01日
20:26

2: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
はい。ナポレオンの子供を産んだマリア・ヴァレフスカとナポレオンの部下ポニトニアスキ元帥は現在、救国の英雄です。あとは槍騎兵の精強さでもポーランドは有名ですね。