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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争

2018年
10月26日
18:58

クリミア戦争史(その52)

 ベッサラビアの国境線問題についても英仏間に意見の対立が生じていました。ロシアはベッサラビアをオスマン支配下のモルダヴィア公国に返還することになっていたが、パーマストンはオーストリアと組んで、返還すべきベッサラビアの境界線をロシアがドナウ川に直接アクセスできないような形に設定しました。それは、ドナウ川に対するロシア支配の存続を懸念するオーストリアへの配慮でもありました。一方、ロシアはカルスからの撤退と引き換えにベッサラビアへの支配を維持しようとしていました。フランスはこの主張を支持したが、英墺両国の圧力を受けて、ナポレオン三世がオルロフを説得し、妥協が成立しました。結局、ロシアは1812年にトルコから奪ったベッサラビアの約三分の一を失うことになりました。ロシアが返還すべき地域にはドナウ川デルタも含まれていました。ただし、ベッサラビアのうちブルガリア人の居住する地域とホティンから南東に走る戦略的に重要な山岳地帯はロシアの領土として残されました。この問題について、英国は勝利を宣言し、オーストリアはドナウ両公国の解放を祝いましたが、ロシアはベッサラビア南部を失ったことを国家的恥辱として受け止めました。17世紀以来、ロシアがその領土をトルコに譲るのはこれが初めてでした。
 その他の重要な問題点は、1854年に連合国側が提示した四項目要求に基づいて、パリ会議開催以前にすでに大筋で解決していました。英国は第五項目としてロシアがカフカス南部のすべての領土(チェルケス、グルジア、エレヴァン、ナヒチェヴァン)を放棄することを要求しましたが、ロシアはアドリアノープル条約を根拠としてこれら領土の領有の正統性を主張し、トルコがロシアのこの主張を支持しました。ただし、ロシアは占領していたカルスを放棄せざるを得ませんでした。ロシアは、また、第三項目の黒海非武装化の適用範囲を限定しようとして、ブク川を河口から20キロほどさかのぼった河川港ニコラエフ(ミコライウ)とアゾフ海を適用除外とすべく交渉を試みましたが、これも失敗に終わりました。
(つづく)

コメント

2018年
10月26日
20:02

子供の頃は公国が理解できませんでしたが、昔は沢山存在していたのですね。

ロシア劣勢ですが、どんなに叩かれてもしぶとく巻き返す国なので これからに期待します。

2018年
10月26日
20:10

2: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
さらに王国があり、帝国がありますね。

ロシアがはいのぼったのは、実に1945年以降でした。

2018年
10月26日
21:07

3: RSC

ロシア苦しい状態ですね

2018年
10月27日
07:01

4: U96

>RSCさん
はい。しかしながらエルサレムに巡礼するロシア正教徒の権利は認められました。