1856年2月25日の午後、パリのケ・ドルセ(オルセー河岸通り)にあるフランス外務省の新築の建物でクリミア戦争の和平会議が開幕しました。
和平会議の開催地としてパリが選ばれたことは、フランスが欧州大陸の大国として復活したという印象を世界に与えました。パリ以外に開催地の候補となり得たのは、ナポレオン戦争を処理した1815年条約の締結地ウィーンだけでしたが、英国が拒否反応を示しました。開戦以来、英国はオーストリアの外交的動きを疑惑の目で見ていたのです。パリが和平会議の開催地となったことは、外交の焦点が、一時的にではあれ、パリに移ったことを意味していました。ウィーンはすでに旧時代の町になってしまったかの感がありました。「今回の事態を経てフランスがひとまわり大きくなったことは、誰にも否定できない事実です」と、自分が和平会議の議長を務めることを知らされたヴァレフスキ外相はナポレオン三世宛の書簡に書いています。「この戦争から最大の利益を引き出せるのはフランスであり、現在、フランスが欧州大陸で最も重要な国であることは間違いありません」
パリ万博が閉幕してから、まだ3カ月しか経ていない時期でした。ドロテア・フォン・リーヴェン公爵夫人(元駐英ロシア大使リーヴェン公爵の夫人で、クリミア戦争の時期にはパリでサロンを開いていた)はオリガ・フォン・メイエンドルフ男爵夫人に宛てた1855年11月9日付の手紙にあります。「驚くほど広い範囲でナポレオン三世に対する世の中の敬意が高まっています。英国がこの戦争を通じて威信を獲得するということはありませんでしたが、その一方で、ナポレオン三世とフランスの株は大いに上がっています」
和平に関する水面下の交渉はすでに前年の冬の到来とともに始まり、代表団がパリに集まった時には、議論の焦点となるべき問題の大半はすでに決着済みでした。未解決の問題が残っていたとすれば、その理由は主として英国の強硬な姿勢にありました。英国内の好戦的なジャーナリズムと世論の圧力にさらされていたパーマストン首相は、10月9日に表明した英国の和平条件を対露講和の最低条件として繰り返し強調し、ロシアが英国の要求を受け入れないかぎり、バルト海戦域での春季攻勢を皮切りに戦争を再開すると脅迫していました。パーマストンは、パリ会議に出席するクラレンドン外相に対して、ロシアが英国の条件を全面的に受諾しないかぎり一歩も引いてはならないと指示しました。
しかし、その強硬姿勢にもかかわらず、パーマストンの要求は流動的でした。たとえば、チェルケス人の独立を保証するという当初の条件は、前年11月の段階ですでに姿を消していました。いずれにしても、混乱したチェルケス地域を代表して和平条約に調印する代表者を見つけ出すこと自体が不可能でした。その一方で、パーマストンはロシアにカフカスと中央アジアを放棄させるという条件は頑として譲りませんでした。そして、英国が強硬姿勢を維持し続ければ、ロシアに両地域を放棄させることは可能だと確信していたのです。2月25日にはクラレンドン外相にパーマストンは新しい要求を書簡で送りました。英国の新要求とは、ロシアが黒海地域からすべての船舶と兵力を引き上げる事、そして、「カルスを含めて、現在ロシアが占領しているトルコ領内のすべての地域からロシア軍を撤退させる事」でした。
(つづく)
コメント
10月24日
20:02
1: ディジー@「本好きの下剋上」応援中
ナポレオン三世って そんなに名君という印象は無かったのですが、同時代人には影響力が大きかったのですね。
イギリスとオーストリアの反目も これからの焦点になっていくのでしょう。
国会で古代ギリシアの沈没船が発見されたニュースを聞きました。 世界の歴史の重要拠点を見守っていた感じがしました。
10月24日
20:08
2: U96
>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
ナポレオン三世の絶頂期ではないかと思います。普仏戦争さえなければ。
沈没船ですか。まだコンスタンティノポリスが建設されていなかった頃ですね。そのころから、ボスポラス海峡を越えて小アジアと交易していたのですね。
10月24日
21:15
3: 恋刀
U96師へ
こんばんは、失礼致します。
ただいまヘタリアを拝読しておりますが、
U96師の文章から放たれる戦争史を拝読致しますと、やはり漫画は漫画だな、そう思ってしまいました。
いつも 有り難う御座居ます
失礼致しました。
10月24日
21:22
4: U96
>恋刀さん
いやあ!漫画には漫画しかできない表現があります。
10月24日
23:17
5: RSC
パーマストン首相は苦悩したでしょうね・・・。
10月25日
05:02
6: U96
>RSCさん
強硬な主張で当選したので、自業自得です。