第一次大戦後の3年目にあたる1916年に西部戦線ソンムの会戦に新兵器戦車が登場して以来、「対戦車銃」の開発が各国で始まりました。最も熱心だったのはドイツで、最初は普通の7.92ミリ小銃から硬合金弾を発射していたのですが、やがて戦車の装甲の強化とともに、ボルトアクションで口径が13ミリというお化けサイズのライフルを1918年に作ります。さらにその口径で半自動銃を完成させ、次は20ミリをと考えていたところでドイツ帝国は敗北してしまいました。
ベルサイユ条約で対戦車ライフルの開発まで禁じられてしまったドイツでは、スイスの精密メーカー、ゾロターン社に研究を引き継がせます。そして1934年に、ゾロターンからS-18という20ミリ対戦車自動砲が売り出されました。
この兵器は、戦前の陸軍の調べによれば、以下の諸元を持っていました。最近の資料といろいろ異なっていますが、そのまま紹介します。
全長2.24m、全重50kg、箱弾倉20発入、初速750~850m/秒、発射速度300発/分。
使用弾薬は、全長が202.5ミリ、薬莢底部のリム径が20.8ミリ、弾頭の長さが75~78.5ミリ、弾頭の重さが150g。
機構は反動利用式で、銃身が19ミリ後退します。
日本陸軍ではこの火器を優秀と評価し、1935年以降に、陸軍技術本部に技術研究を命じます。そして、自動火器開発のメッカとなっていた小倉造兵廠で、1937年にまず8門が竣工します。研究を命じられてから驚くほど早くできあがるのは当時の小倉の特徴のようです。
ただし機構は反動利用式ではなく、日本得意のガス圧利用式(あまり精密でなくとも駆動する)に改められていました。
この「九七式自動砲」は、全長2.06m、全重59kg、箱弾倉7発入、初速750m/秒。先行するゾロターンを超える出来でもないようです。
弾薬は、最初は何を使用したのか分かりません。
1940年に、並行して小倉で開発されていた九八式高射機関砲の使用実包として「100式曳光弾弾薬筒」が完成し、九七式自動砲にもこれが支給されるようになります。
諸元は、実包全長195ミリ、リム径20.84ミリ、弾頭長70ミリ、弾重160g、薬莢長125ミリ、実包重330.0g、曳光は静止時に5.2秒以上で、ゾロターンの弾との互換性は不明です。
対戦車戦闘でなぜ曳光弾が必要かというと、弾道が低伸するために、弾着が外れた場合に、次弾の修正の見当をつけるためです。
九七式自動砲は、8人1組で運用しました。戦車の前端下際を照準して短節な連射を行ない、単射はできませんでした。引金は非常に重く、精密照準や射撃そのものにも支障をきたすほどだったそうです。
生産は1934年度に254門竣工したことが分かっていますが、他の年度のデータはあまりありません。1941年の造兵廠の記録では、年度末で相等の未補給が出ているとあります。
実戦例では1937年のノモンハンで少数が使用され、ある程度の戦果を挙げました。
太平洋戦争末期には、応急製の高射脚架に載せられ、対空兵器としての転用まで図られたようです。
コメント
10月19日
19:29
1: RSC
外観は各国の対戦車ライフルに似ていますね。
10月19日
20:40
2: U96
>RSCさん
はい。しかしながら、素直にゾロターン社にライセンス生産の打診を出せばよいのにと思いました。