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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争

2018年
09月30日
15:33

クリミア戦争史(その47)

 カルス陥落後、英国政府は戦争継続と戦域拡大の決意を強めていました。パーマストン首相はロシア領のうちクリミア半島とカフカス地方をオスマン帝国に返還させ、フィンランドをスウェーデンに割譲させ、バルト諸国をプロイセンに引き渡し、ベッサラビアをオーストリアに与え、ポーランド王国をロシアから独立させるべきだと主張していました。これは英国議会幹部の間で検討され、英国政府の非公式の戦争目標として暗黙の承認を得ていました。
 しかしフランスは消極的でした。クリミア戦争でフランスが受けた損害は英国よりも甚大でした。しかも増大する需要に応じるための医薬品の補給も十分に行われませんでした。たとえナポレオン三世が望んだとしても、フランス軍が戦争を継続することは現実問題として不可能でした。フランス国内の世論も戦争継続を支持していませんでした。フランス経済は戦争によって打撃を受けていました。すでに31万人もの男子が招集された結果、農業は深刻な労働力不足に陥っていました。都市部では食糧不足が始まり、1855年11月には全国的な問題となりました。こうして英国に無断でロシアとの単独講和を結ぼうとする動きがありました。
 皇帝の異父弟シャルル・ド・モルニー公爵は鉄道事業で投機的利益を得ていたので、ロシアを「フランスが開発すべき宝の山」と見なしていました。10月、モルニーはやがてロシアの外相となる駐ウィーン大使アレクサンドル・ゴルチャコフ公爵と接触し、仏露協定を提案しました。
 フランスの動きを警戒して、オーストリアも事態に介入しました。オーストリア外相ブオル・シャウエンシュタイン伯爵がフランスの駐ウィーン大使アドルフ・ド・ブルケネーを介してシャルル・ド・モルニーと接触しました。モルニーはゴルチャコフ大使からロシアが受け入れ可能と見なす条件を聞き出し、その上で、ブオル・シャウエンシュタイン、ブルケネー、モルニーの三者が対露和平交渉の素案を策定しました。仏墺両国の外相が策定し、オーストリアの最終提案として知られることになるこの和平提案は、基本的には四項目要求の繰り返しで、英仏墺三国による「オスマン帝国の領土保全」を主眼としていました。四項目要求と異なる点としては、ロシアがベッサラビアの一部をドナウ両公国から完全に切り離した形で放棄すること、また黒海の中立化を講和条約の条項としてではなく、ロシアとトルコの二国間条約として実現することが含まれていました。ロシアはすでに四項目要求を和平交渉の前提として受け入れていました。ただし、オーストリアの和平提案には新たに五番目の条件が追加されました。すなわち、戦勝国側は「欧州の利益」のために新たに何らかの条件を講和会議に提案することができるという条項でした。
 仏墺両国の和平提案がロンドンに知らされたのは11月18日でした。フランスは急いでいました。クリミアで二度目の冬は越せないと考えていました。議論の蚊帳の外に置かれていた英国政府は、不快感をあらわにしていました。
(つづく)

コメント

2018年
09月30日
19:46

戦争の裏の政治も重しいですね。
イギリスはスカンジナビア半島まで戦争の結果にむすびつけるとは さすがは元世界帝国です。

 フランスは派手な戦果を上げただけ 損害も大きかったか。 講和を結びたくなります。
 しかしトルコを欧州が応援しているのだから歴史は面白いものですv

2018年
09月30日
20:07

2: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
はい。元世界帝国なのでロシアの影響は弱めたかったのでしょうね。フランスの打撃は暴動寸前まで悪化していました。英国抜きの単独講和もやむなしでした。欧州がトルコを応援しているのは、ロシアがイスタンブールまで手中に入れて旧東ローマ帝国の遺産を引き継ごうと真剣に考えているのをなんとしても防ぎたかったからだと思います。

2018年
09月30日
23:27

3: RSC

ナポレオン三世も下手すれば身が危ない状態ですね

2018年
10月01日
04:34

4: U96

>RSCさん
はい。そこでナポレオン三世は講和を呑まなければ、戦闘を継続すると恫喝しますが、ロシア皇帝は冬が来てフランス軍をもっと弱らせてから講和する腹でした。

2018年
10月01日
21:57

‥これまでの戦闘の様子を見る限りはフランス軍なしにまともに戦えてないのにどうしてこうも英国は強気になれるのか‥

2018年
10月02日
06:02

6: U96

>闇従(あんじゅ)さん
その強力な海軍力からでしょうね。特に蒸気戦艦、新型砲に自信をつけたようです。この海軍力をもって、サンクトペテルブルクを封鎖なども真剣に考えられていました。