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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争

2018年
09月13日
18:23

クリミア戦争史(その43)

 狼狽する英国兵たちを再結集して突撃を繰り返すことは不可能でした。敗走した兵士の大半は若年の予備兵でした。レダン要塞攻撃を指揮していた軽騎兵師団の司令官コドリントン将軍は、この日の作戦行動の中止を決定しました。英国軍はすでに戦死者550人、負傷者2000人以上を出していました。コドリントン将軍は作戦を翌日に持ち越し、戦闘経験豊富なハイランド旅団を投入して改めて突撃作戦を行なうつもりでした。しかし、事態は思わぬ方向に進みました。その日の夜、ロシア軍がレダン要塞から撤退してしまったのです。マラホフ要塞にフランス軍が設置した大砲の砲撃からレダン要塞を守ることは不可能だとの判断からでした。ロシア軍のある将軍が戦後すぐに述べたところによれば「マラホフ要塞は単なる一要塞ではなく、セヴァストポリの死命を制する重要拠点だった。マラホフ要塞を奪ったフランス軍は思うままにセヴァストポリを砲撃して数千人の兵士と民間人を殺害することができるだけでなく、北側地区へ脱出するための浮橋を破壊することも可能だった」。
 ゴルチャコフ総司令官はセヴァストポリ南側地区からの全面撤退を命令しました。南側地区の軍事施設は爆破され、物資には火が放たれました。浮橋をわたって北側地区に脱出する命令がすべての兵士と民間人に出されました。
 セヴァストポリ南側地区からの撤退は夕方の7時に始まり、夜を徹して続きました。港湾に面するニコライ堡塁の埠頭には、浮橋を渡ろうとする兵士と民間人の大群衆が詰めかけていました。敵に利用される可能性のある物、動かすことのできない物は、堡塁であれ、船舶であれ、すべて爆破されつつありました。英国軍とフランス軍が今にも襲撃してくるという恐怖からパニックに陥った人々が我先に浮橋に近づこうとして押し合いへし合いの争いが始まりました。港全体が絶え間ない砲撃の目標となっていました。混雑した埠頭に砲弾が落ち、連合軍の捕虜8人が直撃されて即死しました。兵士と軍馬と大砲が最初に浮橋を渡り始め、牛に引かれた荷車の列が続きました。荷車には砲弾と乾草、それに負傷兵が積まれていました。兵士が渡り終わると、次に民間人が列を作って浮橋を渡りました。携行できる荷物は両手で運べる量までに制限されていました。
 浮橋を渡っての退去が完了したのは翌朝8時でした。最後までとどまっていた守備隊に対して、要塞からの退去と町への放火を命ずる信号が発せられました。守備隊はただ一門残されていた大砲を使って、ロシア黒海艦隊の船舶を港湾に沈め、浮橋を渡って北側地区に脱出しました。
 セヴァストポリの火災は数日間燃え続けました。9月12日に英仏軍が入城した時にも、町の一部はまだ燃え続けていました。連合軍の兵士たちが目にしたのは恐るべき光景でした。負傷者の全員がセヴァストポリから退去していたのではなかったのです。数が多すぎて、避難が間に合わなかったのです。約3000人の負傷者が水も食料も与えられずに、炎上する町に置き去りにされていたのです。傷病兵を避難させる責任者だったギュッベネト医師は、連合軍がやって来て看護を引き継いでくれるという前提で彼らを残して行ったのですが、連合軍の入城が四日後になるとは夢にも思わなかったのでした。
(つづく)

コメント

2018年
09月13日
19:47

敵に傷病者を押し付けて 相手の損耗を強いる作戦とは非情ですな。

仏軍が頑張って要塞を奪った価値は大きかった!!

2018年
09月13日
20:11

2: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
おかげで英国の新聞にその非情を攻撃されることになります。

仏軍はよくやりましたが、ナポレオン三世はもう講和モードに入っていました。

2018年
09月13日
21:17

3: RSC

クライマックスに地獄絵図が現れるのはいつの時代も同じですね・・・。

2018年
09月14日
04:33

4: U96

>RSCさん
同感ですね。こんな状況でもニコライ二世は全スラブ民族にゲリラ戦による決起を構想していました。