リード将軍の軍はトラクティル橋付近でチョールナヤ川を渡って前進しました。騎兵隊の支援もなく、砲兵隊の掩護もなしに前進するロシア軍を待ち受けていたのは、フェデューヒン高地の斜面に陣取るフランス軍の砲兵部隊とライフル部隊でした。20分以内に2000人のロシア軍兵士が撃ち倒されました。そこへゴルチャコフ総司令官が増援部隊として派遣した第五歩兵師団が到着しました。第五歩兵師団の司令官は師団総員による総攻撃を敢行して一気に前線を突破すべきであると提案したが、リード将軍は各連隊を順次戦闘に投入する戦法を選びました。連隊単位で前進したロシア軍は次々にフランス軍の砲火の餌食となりました。フランス軍側はすでに自信をつけており、ロシア軍の攻撃を恐れるに足らずと見て、敵をできるだけ引き寄せてから射撃する戦術を採用しました。フェデューヒン高地でフランス軍歩兵部隊を指揮していたオクターヴ・キュレ大尉は「我が軍の砲兵部隊の砲撃はロシア軍を大混乱に陥らせた」と回想しています。
ゴルチャコフ総司令官は全師団による総攻撃を命じました。勢いづいたロシア軍は斜面のフランス軍をフェデューヒン高地の上までいったんは追い上げましたが、フランス軍の百発百中の一斉射撃によって撃退され、最終的にはチョールナヤ川の対岸まで退却を余儀なくされました。この退却の途中で、リード将軍は砲弾の破片にあたって戦死し、ゴルチャコフ総司令官自身が指揮を引き継ぎました。フェデューヒン高地の東端にいたゴルチャコフ将軍は、左翼のリプランディ将軍の軍から八個大隊を呼び寄せて支援に当たらせようとしました。しかし、リプランディ軍の八個大隊は、ガスフォート高地から移動して側面攻撃を開始したサルデーニャ軍からの激しい銃撃を浴びて、テレグラフ・ヒル方面への撤退を余儀なくされました。状況は絶望的でした。午前10時を過ぎた頃、ゴルチャコフは総退却を命じました。
チョールナヤ川の戦闘での連合軍の死傷者は1800人でした。一方、ロシア軍は戦死者2273、負傷者約4000、行方不明者1742を出しました。行方不明者の大部分は朝霧や戦闘の混乱に紛れて戦線を離脱した脱走兵でした。死傷者の収容が終わるまでに数日の時間がかかりました(ロシア軍は死傷者の収容さえ行わなかった)。その間に戦場跡を歩き回る人々がいました。その中には、負傷者の救護に当たる看護婦だけでなく、戦争観光に訪れた見物人も含まれていました。見物人たちは戦死者から記念品を盗んでいきました。略奪者たちの中には、少なくとも二人の英国人従軍牧師が含まれていました。
(つづく)
コメント
08月25日
17:49
1: RSC
見物人が堂々と落ち武者狩りみたいな事をしていたのですね。
08月25日
18:01
2: ディジー@「本好きの下剋上」応援中
フランス軍の錬度が高いですね!
ロシア軍等は まだ 敵からの射撃を突破する舞台の援護射撃がヘタなのですかね。
日本人は今でも震災の後に被災地に入り込んで 記念撮影する人が沢山いますからw
08月25日
19:02
3: U96
>RSCさん
はい。戦国時代の日本では厳罰だったのですがね。
08月25日
19:12
4: U96
>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
私も破壊された神戸の繁華街にカメラを向けた過去があります。