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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争

2018年
07月17日
18:59

クリミア戦争史(その25)

 連合軍はロシア軍の補給路への攻撃作戦を一度も試みなかったわけではありませんでした。たとえば、アゾフ海経由の補給路の要衝であるケルチ港への攻撃はあその試みの一つでした。作戦命令が出たのは1855年3月26日でした。これまで活躍の場がなかった英国海軍が参加するこの作戦には大きな期待がかけられていました。当初はケルチ作戦について懐疑的だったフランス軍のカンロベール総司令官も4月29日になってフランス艦隊の一部を作戦に参加させることに同意しました。英仏両軍のケルチ派遣艦隊は5月3日に出航したのですが、艦隊がケルチに到着する直前に一隻の高速艇が追いつき、フランス艦隊にイスタンブールへの帰港を命じるカンロベール総司令官の命令が伝えられました。艦隊の出航後まもなくパリから電報が届き、ナポレオン三世からカンロベール宛にイスタンブールからの予備兵力の引き揚げ命令が伝えられました。兵力の輸送には艦隊が必要だったので、カンロベールは渋々ながらケルチ港攻撃作戦からの撤退を決断したのです。フランス艦隊の撤退にともなって、英国艦隊も作戦の中止を余儀なくされました。カンロベールは英国に対して(そして多数のフランス人に対しても)面目を失うことになりました。
 5月16日、カンロベールが仏軍総司令官の職を辞任しました。後任のフランス軍総司令官エマーブル・ペリシエ将軍は背が低く、小太りだったが、豪放磊落な性格で、決断力と行動力に富んでいました。
 ペリシエ新総司令官は、英仏両軍の関係を修復しようとする観点からケルチ作戦のやり直しに同意しました。そこで、5月24日、フランス軍7000、トルコ軍5000、英国軍3000の連合軍が60隻の軍艦に分乗してケルチに向けて出航しました。司令官は前回と同じジョージ・ブラウン中将でした。艦隊の接近を目にして、ケルチのロシア人住民の大半が農村部へにげだしました。連合軍は短時間砲撃を加えた後、抵抗を受けずに上陸しました。ブラウンは主としてフランス兵とトルコ兵からなる小部隊をケルチに残して、市内の武器庫の破壊を命じた後、本隊を率いてケルチ海峡のエニカレ要塞に向かいました。エニカレではブラウン司令官の目の前でロシア人の財産に対する略奪が行われました。その間に連合艦隊はアゾフ海に入って沿岸を砲撃し、ロシアの船舶を破壊しました。アゾフ海北部沿岸の都市マリウポリとタガンログは灰燼に帰しました。
 一方、ケルチとエニカレでは、ロシア市民の財産に対する破壊と略奪が続いていたが、一部は恐るべき残虐行為に及んだのです。最悪の事態はケルチで発生しました。地元のタタール人がロシア人に対する恨みを晴らすべく、占領軍の威を借りて復讐を開始したのです。タタール人はトルコ軍の助勢を得て商店や住宅を襲撃して略奪し、ロシア人の女性を強姦し、子供や嬰児を含む数百人を殺害したのです。
 ブラウン司令官の許にはタタール人やトルコ兵だけでなく、英仏軍の一部も略奪と殺戮に参加しているという報告が入っていました。最悪の残虐行為についての報告が入ると、ブラウンはようやく腰を上げて秩序回復のための小部隊(英国騎兵隊員20名)を派遣しました。ただし、強姦の現場で加害者の英国軍兵士数人が射殺されたことを除けば、20名の人数で実質的な秩序回復をあげることは不可能でした。
 ロシア側の証言によれば、一般の兵士だけでなく、英仏軍の士官の中にも、略奪、強姦、殺戮などの残虐行為に加わるものがいたということでした。
(つづく)

コメント

2018年
07月17日
19:56

敵の補給路を叩く、効果的でしょうけれど、敵の奥に入っていかないといけないので難しいのですね。

民族紛争の恨みは怖いですな。
イギリスとフランスが仲良くしていれば防げたのですかね?

2018年
07月17日
20:02

2: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
はい。敵を包囲しつつ、敵の補給路を遮断するという作戦はユーゴ内戦でクロアチア軍が自信を持って、実行し、ボコボコにされております。

ブラウン司令官がタタール人はロシアと戦う友人だと事態を重く見ていなかったので、すぐ動かなかったのです。

2018年
07月18日
00:06

3: 葛湯

>残虐行為
ベトナム戦争でもベトナム側には多くの記録や証言が残されているようですし、キレイ?に勝つことの難しさを感じます。

2018年
07月18日
04:20

4: U96

>葛湯さん
イスラムの軍隊では略奪が兵士の権利となっていたのですが、残虐行為にまで至ると、怨恨、勝者の驕りなど負の連鎖を感じます。