英仏両国がクリミア半島に関する軍事戦略の再検討を本格的に開始したのは4月に入ってからでした。4月18日、英仏両国の首脳部が顔をそろえる戦略会議がウィンザー城で開催されました。英国側からはパーマストン首相、ヴィクトリア女王の夫アルバート公、クラレンドン外相、新任の陸軍兼戦時相パンミュア卿、バーゴイン工兵隊司令官が、また、フランス側からはナポレオン三世、陸軍相ヴァイヤン元帥、辞任したドルーアン・ド・リュイの後任として外相に就任したばかりのアレクサンドル・ヴァレフスキ伯爵(ポーランド生まれ。ナポレオン一世の庶子と言われた)の面々が出席しました。パーマストンとナポレオン三世の二人はともにクリミア戦線の戦略を変更すべきだという立場でした。つまり、セヴァストポリに的を絞って砲撃する作戦にこだわるのではなく、ロシアに対する戦争拡大の第一歩としてクリミア半島全域を制圧すべきだと考えていたのです。この戦略変更は、クリミアのタタール人を味方を味方に引き入れる機会となるだけでなく、開かれた平野部での戦闘への復帰という意味で重要でした。アリマ川とインケルマンの戦闘ですでに証明されたように、平野部での戦闘においては、英仏軍の技術的能力がロシア軍をはるかに凌駕していたのです。英仏軍の最大の長所は歩兵部隊の戦闘技術の高さと小銃の火力の優越性でしたが、セヴァストポリ攻囲戦ではその長所が生かされることはなかったのです。工兵部隊と砲兵部隊の戦闘能力に関して言えば、ロシア軍は英仏軍に比べて少なくとも同等の力量を備えていたのです。
ナポレオン三世は戦略の変更にきわめて熱心でした。セヴァストポリを占領することは、皇帝がこの戦争で目指していた主要目標のひとつではあったが、包囲網を完成して孤立させないかぎりこの要塞が容易に陥落しないことは明白であり、しかも、完全包囲網が実現すれば、セヴァストポリは攻撃するまでもなく陥落するものと思われました。そこで、皇帝はもっぱら南側からセヴァストポリを砲撃するというこれまでの作戦に代えて、海岸線を東へ70キロ離れたアルシタに陸軍を上陸させ、そこからシンフェロポリに向けて進軍させる作戦を提案しました。セヴァストポリへのロシア軍の補給の大部分がシンフェロポリを経由して行われているというのが提案の根拠でした。英国もナポレオン三世の提案に大筋で賛成でした。ただし、みずからクリミアに出向いて軍事作戦の指揮にあたるという向こう見ずな計画を放棄することが賛成の条件でした。フランス軍関係者の間で「ナポレオン計画」と呼ばれることになるアルシタ上陸作戦は、連合軍がクリミア半島の内陸部で実行すべき作戦の選択肢に含まれることになりました。作戦の選択肢は全部で三つあり、第二はセヴァストポリ周辺に駐留する連合軍部隊をバフチサライへの攻撃に振り向ける作戦、第三はエフパトリアに部隊を再上陸させてシンフェロポリまで進軍させる作戦でした。戦略の変更について両国が合意し、双方の陸軍相が覚書に署名しました。英内閣はパンミュア陸軍相の名前でこの覚書の写しを現地の総司令官ラグランに送付したが、その命令書によれば、三つの作戦のうちどれを採用するかはラグマンの裁量に委ねられるものの、採用した作戦は直ちに発動すべきものとされていました。その間、セヴァストポリ周辺の陣地と塹壕には6万(トルコ軍3万、フランス軍3万)の部隊が残留することになりました。残留部隊の任務は、セヴァストポリへの砲撃継続ではなく、ロシア軍が包囲を突破して域外に進出する事態を阻止することにありました。
しかし、ラグランは戦略の変更について懐疑的であり、もっぱらセヴァストポリへの包囲攻撃作戦を続行すべきだと考えていました。砲撃を続行すればセヴァストポリは遠からず陥落するだろうというのがラグマンの見通しでした。しかし、もし今、平野部での戦闘に作戦を転換すれば、セヴァストポリ周辺の連合軍兵力は手薄となり、攻撃どころか自軍陣地の防衛も危うくなる。そう考えたラグランは、独自の判断で現地戦略会議を開催しました。それは、抗命ではないとしても、ロンドンの政治指導部に対する公然たる挑戦行為でした。フランス軍総司令官カンロベールとトルコ軍総司令官オメル・パシャが出席したこの現地戦略会議で、ラグランはパンミュア陸軍相からの命令を単なる「提案」として扱い、それを採用するか否かは現地の判断に委ねられていると発言しました。平野部での戦闘への戦略転換を支持する立場だったフランス軍のカンロベール総司令官は、もしラグランが平野部での作戦を開始するならフランス軍の兵力を提供するという申し出を再三行ったが、ついにラグランの抵抗に業を煮やして、ナポレオン三世宛の報告書に次のように書いています。「皇帝陛下によって策定された新戦略は、英国軍総司令官の非協力的な態度によって事実上不可能になっている」
シンフェロポリを奪い、それを足掛かりにしてクリミア半島全域を制圧する作戦が実現しなかったことについて、フランスは以後長年にわたって英国の責任を問うことになりました。フランスが不満だったのは、不適格とは言わないまでも、少なくとも規律違反の故を以って罷免されてしかるべきだったラグラン総司令官が罷免されなかったばかりか、クリミア半島内陸部への攻撃命令を拒否したことについての譴責さえ受けなかったことでした。ロシア軍の主要補給路を断つことこそ、ロシア側が最も恐れていたシナリオでした。ニコライ一世が2月にエフパトリア攻撃を命じた理由も、このシナリオを阻止するために他ならなかったのです。ロシア側は英仏軍がシンフェロポリまたはペレコプに攻撃をかけるとすれば、まず、エフパトリアに再上陸するだろうと予測していたのです。後にロシア側が認めたところによれば、英仏軍がなぜ補給路を攻撃してこないのか不思議に思っていたのでした。
(つづく)
コメント
07月16日
12:53
1: RSC
ナポレオン三世は有名な海洋冒険小説ホーンブロワーシリーズに本人が少しだけ登場しますが、欧州に覇を唱えた皇帝に比べまさに山師というイメージでした。
史実でも、何処か行き当たりばったりな人っぽいです。ただ、平時ならそれなりに有能な人にも思えますが。
07月16日
14:36
2: U96
>RSCさん
はい。確かナポレオンの甥だったのでしたね。
実は普仏戦争のボードゲームが雑誌付録になり、ナポレオン三世のゲームなんて、見たくもないと私はスルーしてしまいました。平和な世に生まれたらよかったのにと思います。
07月17日
11:45
3: ディジー@「本好きの下剋上」応援中
細かい戦術の違いがあって、もめるのですね^^
中々に難しい!
連合軍も同じ国力の国同士だと 一長一短ありますね。
07月17日
14:50
4: U96
>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
第2次大戦でも英国と米国の意志疎通の齟齬から、担当戦域を分担する必要がありました。例えば、ノルマンディー上陸作戦やマーケットガーデン作戦です。