英国軍は麻酔術の導入についてロシア軍やフランス軍よりもはるかに消極的でした。軍医総監のジョン・ホール卿は、英国軍がクリミア半島に向けてヴァルナ港を出航する直前に発した通達の中で、麻酔術の利用を控えるよう軍医たちに指示しています。「患者が重い銃創を受けて深刻なショック状態にある場合であっても、クロロホルムの使用は極力慎むべきである・・・麻酔薬を使わないことは、表面上は残酷に思われるかもしれないが、メスの痛みは強力な刺激となって患者に力を与える。意識を失ったまま静かにあの世に行くよりも、元気に喚き声を上げて生き返る方がはるかにマシである」。当時の医学界では、麻酔術という新技術に対する消極的な意見が主流を占めていました。クロロホルムは患者の回復力を弱めるという主張があり、また、麻酔術の専門医がいない戦場で麻酔薬を使うのは問題外であるという説もありました。このような意見の背景に、英国の兵士はいかなる苦痛にも動じないという考え方が一般的だったことがありました。
ピロゴーフに率いられるロシア軍の軍医たちは、フランス軍と同様に、野戦病院における看護婦の役割を重視していました。傷の程度に応じて負傷兵を区分けする作業を手伝うのは看護婦であり、患者に慰めの言葉をかけ、薬品の調剤と投薬を行ない、茶やワインを配り、患者の手紙を代筆し、臨終の患者を精神的に支えるのも看護婦でした。ピロゴーフは妻宛の手紙に次のように書いています「女性が果たす役割には驚くものがある。病院の勤務者の中にきちんとした服装の女性がひとり存在するだけで、負傷兵たちの苦痛は大いに和らげられるのだ」。ロシア宮廷の貴婦人たちの間に看護婦団をクリミア半島に送り込もうとする動きが始まった時、ピロゴーフはその動きを歓迎し、奨励しました。たとえば、皇帝の義理の妹に当たるドイツ生まれのエレナ・パヴロヴナ大公妃はインケルマンの敗北が伝えられた直後に「聖十字架看護婦会」を設立したが、その第一陣として34人の看護婦がピロゴーフに強力すべく、12月1日にシンフェロポリに到着しています。サンクトペテルブルクから1000キロの泥道を走破する困難な長旅を経てクリミア半島にやってきた看護婦たちの多くは軍人の娘や妻や寡婦であり、一部に商人や宗教関係者や下級貴族たる役人の子女も混ざっていました。もちろん、彼女たちが戦場の厳しい環境に接するのは初めてであり、チフスその他の疾病に感染して倒れる者も少なくなかったのです。ピロゴーフは看護婦たちを三つのグループに分けました。傷の手当と手術の助手を務めるグループ、薬の調剤と投薬を担当するグループ、病院の管理運営に当たるグループの三グループでした。
クリミア半島の現地でも、地元の女性たちがみずから志願し、あるいは看護婦団を組織してセヴァストポリ周辺の応急手当所や野戦病院に馳せ参じる動きがありました。ピロゴーフはこれらの女性の勇気ある行動を称賛しています。ロシア軍当局は女性が部隊に出入りすることを嫌ったが、ピロゴーフは当局の圧力に抗して、さらに多数の看護婦団を組織しようとしていました。最終的にはエレナ・パヴロヴナ大公妃の影響力が物を言って、皇帝ニコライ一世が聖十字架看護婦会の活動を公式に認める運びとなりました。聖十字架看護婦会の医療活動を支えた資金は、当初はエレナ・パヴロヴナ大公妃自身が負担していました。大公妃は、また、親族のコネを利用して、当時高貴薬だったキニーネを含む医薬品を英国から買い入れ、サンクトペテルブルクのミハイロフスキー宮殿にある自宅の地下室に保管していました。ひとたび皇帝の認可が下りると、貴族、商人、役人、司祭など各界から看護婦会への寄付が殺到しました。1月に入ると、聖十字架看護婦会はさらに二度にわたって看護婦団をセヴァストポリに派遣しました。そのうち、二番目の看護婦団を指揮したエカチェリーナ・バクーニナはサンクトペテルブルク市長の娘で、無政府主義者の革命家ミハイル・バクーニンの従姉でした(当時、ミハイル・バクーニンは逮捕されてサンクトペテルブルクのペトロパヴロフスク要塞に収監されていた)。
フローレンス・ナイチンゲールも、エレナ・パヴロヴナ大公妃と同様に、傷病兵の救護に貢献したいという衝動を感じていました。ダービーシャーの大産業資本家の一家に生まれたフローレンスは、当時の英国政府の政治家や役人の大半よりも高度の教育を受けた女性でした。ナイチンゲール家は政財界に広くコネを持っていたが、女であるがゆえに、フローレンスの活動範囲は慈善事業の分野に限られていました。キリスト教の信仰に燃える25歳のフローレンスは、家族の反対を押し切って貧民街での慈善事業に乗り出し、次いで、ドイツに渡って、デュッセルドルフ郊外のカイザースヴェルト・アム・ラインにあったルーテル派教団の看護婦養成学校に入学しました。そこで、テオドル・フリードナー牧師が設立した慈善看護婦会の看護方法を学び、1851年に卒業すると看護術の基本原則を英国に持ち帰って、1853年にはハーリー・ストリートの慈善病院の院長に就任しました。ナイチンゲールがクリミアに行きたかったのは、看護の基本原則、すなわち、病棟を清潔に保ち、効率的に運営するという原則に他ならなかったのです。しかし、この考え方自体には目新しい点は何もなかったのです。クリミア半島に駐留する英国軍の医療関係者も、病院の清潔さと整然たる運営が医療に役立つことは十二分に認識していました。ただし、この常識的な理想を実現するために必要な人材と資金が不足していることが問題でした。ナイチンゲールにとっても、この問題を完全に解決することは最後まで困難でした。
(つづく)
コメント
07月11日
17:41
1: RSC
英国軍の麻酔に対する姿勢、世界に先んじてライムを取り入れて壊血病に対抗出来たのは偶然だったのでしょうか・・・。
07月11日
20:38
2: U96
>RSCさん
どうしたことでしょう。この保守的な考え方は。
07月11日
20:39
3: ディジー@「本好きの下剋上」応援中
グダグダになる程医者と女性が強くなるのかしら?
良い事です。
07月11日
20:44
4: U96
>ディジー@「本好きの下剋上」応援中 さん
そのうちナイチンゲールの高圧な態度に反発して本国へ送り返される看護婦も出てきます。
07月11日
23:44
5: k-papa
看護師の奥さんはナイチンゲールはとても嫌いだそうです。
看護の仕事を慈善奉仕にするのはあまりにも美化し過ぎとのことです。
裕福な家庭のお嬢様なので、ボランティア活動の一貫にしたがるのでしょうね。
07月12日
03:41
6: U96
>k-papaさん
はい。次回にでもナイチンゲールの独裁者としての面を書こうと思います。ありがとうございました。