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U96さんの日記

(Web全体に公開)

タグ : クリミア戦争,ピロゴーフ

2018年
07月10日
16:39

クリミア戦争史(その18)

 最初の冬に関して言えば、フランス軍傷病兵の死亡率は英国軍を大幅に下回ったのでした(ただし、二年目の冬になるとフランス軍の病死率は急上昇する)。フランス軍傷病兵の死亡率が低かった背景には、フランス軍病院の清潔さに加えて、前線のすぐ近くに応急手当所が設置され、すべての連隊に衛生兵が配置されていたという事情がありました。応急処置の訓練を受けた衛生兵は戦場の現場で負傷者の手当てをすることができました。一方、英国軍は傷病兵の大半をクリミアからスクタリまではるばる搬送するという手法を取ったが、これは重大な失敗でした。傷病兵は輸送船でイスタンブールまでの長距離を搬送されたが、輸送船には定員をはるかに超える人数の傷病兵が積み込まれ、しかも、軍医が乗り合わせることは稀でした。ラグマン総司令官は傷病兵の扱いについて純粋に軍事作戦上の観点から方針を決定しており(「傷病兵は作戦の足手まといになる」)、傷病兵はスクタリまでの長い船旅には耐えられないので、できるだけ早く現地で治療する必要があるという幕僚の提言に耳を貸しませんでした。
 フローレンス・ナイチンゲールはスクタリで英国軍病院の惨状を目にすることになるが、当時のロシア軍の病院はそれよりもさらに悪い状態でした。しかし、ロシア軍は、フランス軍と同様に、傷病兵に対する現地治療の必要性をよく理解していました。戦場の外科医療システムを世界に先駆けて確立したのは他ならぬロシア軍であり、その功労者は軍医ニコライ・ピロゴーフでした。この分野で諸外国がロシアの水準に追いつくのは第一次大戦になってからのことです。ピロゴーフの名は国外でほとんど知られていないが、ロシアでは国民的英雄と見なされています。事実、クリミア戦争の全期間を通じてピロゴーフが戦場医療の発展のために行った貢献は、英国のフローレンス・ナイチンゲールに勝るとも劣らないものがありました。
 ニコライ・ピロゴーフは1810年にモスクワに生まれ、14歳でモスクワ大学医学部に入学し、25歳の時、ドイツ系のドルパット大学(現エストニアのタルトゥ大学)の医学部教授となり、その後サンクトペテルブルク軍医科大学の外科学教授に任命されました。1847年にはロシア軍に随行してカフカス地方に赴任し、外科手術にエーテルを使用する技術を世界に先駆けて導入しました。戦場での手術に麻酔術を使用した最初の外科医はピロゴーフだったのです。1847年から52年にかけて、ピロゴーフはロシア語の刊行物にエーテル使用の利点を解説した論文を数点発表したが、ロシア国外で彼の文献に注目した医師はほとんどいなかったのです。ピロゴーフによれば、麻酔は手術を受ける負傷兵を苦痛とショックから救済するだけではなかったのです。病院に運び込まれた時点で負傷兵にエーテルを与えれば、彼らを落ち着かせ、気絶させないでおくことができる。その結果、医師は緊急に手術が必要な患者としばらく待たせてもよい患者との区分けをすることが可能となります。手術の緊急性に応じて患者を区分するシステム、つまり「トリアージ」こそ、ピロゴーフがクリミア戦争中に達成した最大の成果でした。
ピロゴーフは1854年12月にクリミア半島に赴任しました。セヴァストポリ到着後に最初に手掛けた仕事は、市内の各病院の混乱に終止符を打ち、一定の秩序を回復することでした。その上で、彼は徐々にトリアージのシステムを導入していきました。貴族会館に設置された市内最大の野戦病院の責任者としてピロゴーフが最初に目にしたのは驚くべき混乱でした。英仏軍の砲撃を受けるたびに、瀕死の重傷者、緊急処置を必要とする負傷者、軽傷者など、さまざまな症状の多数の患者が無秩序に運び込まれていました。最初のうち、ピロゴーフは最も重傷と思われる患者を優先的に手術台に運ぶよう看護婦に命じていました。しかし、一人の患者の手術に集中している間に、次から次に重傷者が運び込まれ、到底対応が追いつかなくなりました。手術をすれば助かるのに、治療が間に合わないために無駄に死んでいく重傷者が放置されている一方で、医師たちはあまりにも重傷で助かる見込みのない患者の手術に追われるという状態でした。「これでは意味がないと私は思い、断固として合理性を貫徹すべきだと心に決めた」とピロゴーフは回想しています。「命を救うためには、手術台の上の医療活動よりも、応急手当所での患者の区分けの方がはるかに重要だった」。ピロゴーフが解決策として導入したのは基本的なトリアージのシステムでした。初めて採用されたのは1855年1月20日のセヴァストポリ砲撃の最中でした。ピロゴーフは貴族会館の大広間に運び込まれた負傷兵を、応急手当を施すべき優先順位に従って、大きく三つのグループに区分しました。治療すれば命の助かる重傷者は手術室に運ばれてすぐに手術されました。軽傷者は番号札を渡され、近くの兵舎に運ばれて、医師の手当を待つように言われました。助かる見込みのない重傷者は安息所に運ばれ、医療助手、看護婦、司祭などの看護を受けて死を待つのでした。
 ピロゴーフによる麻酔術の導入は手術の迅速化を可能にしました。彼とその部下の外科医たちは同時に三台の手術台を使い、一日七時間の作業で100件以上の切断手術をこなしました。ピロゴーフは、また、足首の切断に関する新しい手術方法を開発しました。それは踵の骨の一部を残すことによって脚部の骨を支えるという手術で、一般の手術よりも切断部分を小さく限定し、傷口を必要最小限の大きさにとどめ、出血量を抑制する手術法でした。大量の出血が患者の生命にとって重大な脅威であることをピロゴーフはよく理解していました。彼は、また、感染症の危険も認識しており(ただし細菌が発見されていなかった当時なので、病気を媒介するのは汚染された空気であると信じていた)、手術の終わった患者が、傷口から膿を発している他の患者や壊疽の兆候のある患者と接触することを厳重に禁止しました。これらの先進的な対策によって、ピロゴーフは英仏軍よりもはるかに高い手術生存率を達成しました。たとえば、腕の切断手術を受けたロシア兵の生存率は65パーセントまで向上しました。クリミア戦争で最も広く行われ、最も危険だった手術は大腿部の切断手術でしたが、これについても、ピロゴーフは25パーセントの生存率を実現しています。一方、英仏軍の野戦病院で大腿部切断手術を受けた患者の生存率は10パーセント前後の水準にとどまっていました。
(つづく)

コメント

2018年
07月10日
18:30

>傷病兵はスクタリまでの長い船旅には耐えられないので、できるだけ早く現地で治療する必要があるという幕僚の提言に耳を貸しませんでした。

偉い人には分からんのですよw

2018年
07月10日
18:44

トリアージも この戦争から始まったのですね。
やはり最初は重い決断だったのでしょう。
 
麻酔手術もですか!
医術も戦争で進化するものなのですか。
 やはり この戦争が近代化の転換点かもしれませんね。

2018年
07月10日
19:58

3: U96

>櫻 弾基地(さくらたまきち 実験中)さん
はい。士官は貴族ですからね。足の2本も失ったら、目が覚めるのかもしれません。

2018年
07月10日
20:02

4: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
イギリス軍では軍医総監が麻酔の使用を控える通達まで出しております。この戦争でイギリスがどこまで変われるか?

2018年
07月10日
21:52

5: RSC

もし負傷兵の輸送艦が撃沈されたら、と思うとゾッとします。

2018年
07月11日
00:32

6: 葛湯

ナイチンゲールの話はちょこちょこ読んだことがありますが、ロシア軍でも革新的なことが進められていたのですね。

2018年
07月11日
03:20

7: U96

>RSCさん
英軍の制海権下であるからできるのですね。

しかしながら、第1次大戦で無制限潜水艦戦争が始まってしまいます。こうなると制海権下でも侵入されてしまいます。

2018年
07月11日
03:23

8: U96

>葛湯さん
はい。次回はロシア軍事情を少し書いて、ナイチンゲールに入ります。