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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2018年
07月06日
08:30

クリミア戦争史(その14)

 ボスケ軍は早朝の砲撃戦の音を聞いた時から英国軍が危険にさらされていることを察知していました。ズアーヴ兵たちはすでに前の晩からロシア軍の移動を嗅ぎ取っていました。地面に耳をあてて情報を聞き取る技術をアフリカ戦線の経験から体得していたのです。彼らは先制攻撃の命令が下るのを待ち構えていました。ズアーブ兵にとって、濃い霧の立ち込める稜線の灌木地帯はまたとない好条件の戦場でした。アルジェリアで山岳戦争に習熟していたズアーヴ兵は、小集団で動き回り、敵を待ち伏せする戦闘を最も得意としていました。しかし、ボスケ将軍は彼らを押しとどめました。ゴルチャコフ将軍の率いるリプランディ軍2万2千人と野砲88門が南渓谷に集結していることを知って、警戒していたのです。
 リプランディ軍の規模は、実際には、ボスケ将軍が恐れたほど大きくはありませんでした。ゴルチャコフ将軍が愚かにも半数を予備部隊としてチョールナヤ川北岸に残していたからです。ズアーブ兵部隊は数の上で優勢と思われる敵を圧倒すべく、猛烈な勢いで突進しました。小集団に分かれて前進したズアーヴ兵部隊は灌木の陰に隠れてロシア軍を銃撃しました。あらゆる手を使ってロシア軍を恐怖の陥れるのが彼らの戦術でした。
 ズアーブ兵の攻撃はロシア軍を圧倒しました。ミニエ銃による銃撃は最初の数秒間で数百のロシア兵をなぎ倒しました。ホーム・リッジへの斜面を制圧したズアーヴ兵部隊は次にサンドバック砲台からロシア軍を駆逐し、セント・クレメント渓谷の底部まで追撃し、さらに採石場渓谷に敵を追い込みました。すでに退却して採石場渓谷の下に集まっていたタルチンスキー連隊の兵士たちは新たな闖入者の出現でパニック状態となり、発砲して応戦しましたが、その銃弾に倒れたのは主として退却してきたロシア兵でした。ズアーヴ兵たちは素早く後退して十字砲火を逃れ、斜面を駆け登ってホーム・リッジに向かいました。
 ホームリッジの英国軍は、挟撃作戦を仕掛けてきたパヴロフ軍の右翼を相手に必死に防戦していました。オホーツク、ヤクーツク、セレギンスクの三連隊で構成されるパヴロフ軍の右翼はソイモノフ軍の残存部隊を加えて、ダンネルベルク将軍の指揮の下に、再びサンドバック砲台への攻撃を開始しました。待ち構える英国軍の銃撃の餌食となりながらも、ロシア兵は銃剣を構えて次から次へと波状攻撃をかけて砲台周辺に迫り、両軍兵士の接近戦が始まりました。数の上ではロシア軍が英国軍を圧倒していました。英国軍としては、すぐに増援部隊が来なければ持ちこたえられない状況でした。あわやという瞬間にキャスカート将軍の率いる第四師団が駆けつけました。第四師団にはアーサー・トレンズ少将の指揮する六個中隊も含まれていました。彼らはサンドバック砲台付近のロシア軍への攻撃を命じられると、稜線から敵を撃退し、さらに谷間深くまで追撃したが、そこで統制を失い、別の稜線にいたロシア軍のヤクーツク連隊とセレギンスク連隊から激しい銃撃を受けました。十字砲火の中で、指揮官のキャスカート将軍をはじめ、多数が戦死しました。
 この時点でサンドバック砲台を守っていたのはケンブリッジ公を司令官とする近衛歩兵連隊でしたが、その兵力は100人程度を残すのみで、弾薬も底をついていました。これに対して攻めるロシア軍は2000人を超えていました。作戦全体から見ればさほど重要でないこの砲台にこだわるのは犠牲に値しない愚行でした。参謀たちは退却するよう説得しました。ヴィクトリア女王の従弟であるケンブリッジ公と近衛歩兵連隊の軍旗が敵の手に落ちる事態だけは何としても避けなければならなかったのです。参謀の一人だったヒギンソンがホーム・リッジまで退却する作戦の指揮を取りました。
 その時、稜線上にボスケ将軍の指揮するフランス軍部隊が姿を現わしました。英国人がフランス兵の出現をこれほど歓迎するのは滅多にないことでした。フランス軍と合流した時、英国近衛歩兵連隊の兵士たちはいっせいに「フランス万歳!」と叫びました。これに応じて、フランス軍の兵士たちも叫びました。「イギリス万歳!」
 ロシア軍はフランス軍の出現に怯んで退却しました。シェル・ヒルまで下がって態勢を立て直そうとしたのです。しかし、その時点で、ロシア軍兵士は士気を喪失していました。英仏連合軍が相手では勝ち目がないと思う兵士が多かったのです。ダンネンベルク将軍は砲撃戦に持ち込めば勝てると考えていました。ロシア軍には12ポンドの野戦砲と榴弾砲を含めて100門近い大砲があり、ホーム・リッジの英国軍の砲撃能力を大きく上回っていたからです。しかし、午前9時半頃、英国軍はラグラン卿が命令していた18ポンド砲二門の運び上げに成功し、シェル・ヒルに向けて猛烈な砲撃を開始しました。ロシア軍砲兵部隊は退却を余儀なくされました。しかし、戦闘はまだ終わったわけではなかったのです。稜線には6000人のロシア兵が踏み留まっており、チョールナヤ川の北岸にはその二倍の人数の予備部隊が控えていました。ロシア軍の一部は依然として突撃を試みたが、攻撃に出る度に英国軍の砲撃の的となってなぎ倒されるという状態でした。
 ダンネンベルクはついに作戦の中止と退却を決定しました。メンシコフ、ミハイル大公、ニコライ大公の三人は激しく反対しました。ダンネンベルクはメンシコフに答えて言いました。「総司令官閣下、今、兵士を退却させなければ、最後の一兵までが命を失うことになります。退却に反対されるなら、私を解任して、ご自分で直接に指揮を取っていただきたい」。
 インケルマンは、数の上での圧倒的な優位にもかかわらず、ロシア軍が敗北した戦闘でした。メンシコフはダンネンベルクを責め、ダンネンベルクは戦死したソイモノフを責めました。しかし、ロシア軍の混乱の根本的な原因は司令部の判断の誤りにありました。その意味で最大の責任は最高司令官のメンシコフにありました。メンシコフは臆病風に吹かれて、作戦に一切参加しなかったのです。
 敗走するロシア軍を追ってフランス軍が追撃しました。フランス軍のうち、ルールメル旅団の兵士十数人は勢いに乗じてセヴァストポリ市内に侵入しました。セヴァストポリ市街はがらんとして人気がありませんでした。全員が戦場に出るか、要塞に篭っていたからです。ルールメル旅団の十数人の兵士たちのエピソードはセヴァストポリ攻囲戦の全期間を通じて長くフランス軍の語り草となり、大胆に攻撃すれば一挙にセヴァストポリに入城し、陥落できたはずという主張の根拠になりました。
 ロシア軍はインケルマンの戦いで1万2千人を失いました。英国軍の死傷者は2610人、フランス軍は1726人でした。いずれにせよ、わずか四時間の戦闘の戦死者数としては驚くべき数字でした。
(つづく)

コメント

2018年
07月06日
09:13

戦闘も被害も大規模になっていきますね。
バトルとしては面白いです。
 この裏で外交が どう動いているか?も気になります。

2018年
07月06日
09:23

2: U96

>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
ロシアはまだバルカン方面からいくらでも兵を書き集められるつもりでいました。フランスはイギリスを救助したことで、外交的には上位に立ちました。

2018年
07月06日
16:19

3: RSC

ズアーヴ兵の索敵能力が凄いですね・・・ここでもフランス軍は外国人兵を上手く利用していますね。

2018年
07月06日
16:25

4: U96

>RSCさん
はい。ちなみにズアーヴ兵はそのイスラム風の制服が異国情緒があり、アメリカ南北戦争でも両軍ともフランスから制服を輸入していた関係上、ズアーヴ兵の制服は人気でした。