英国軍は悪天候を避けるために掩蔽壕に入っていたのです。そこからは何も見えなかったのです。その日の夕方には、軍隊が発するような不審な音が聞こえていたのですが、適切な警戒警報は出されていませんでした。その夜、インケルマン山上の歩哨所で任務に就いていた二等兵のブルームフィールドは回想の中で「その晩は濃い霧が立ち込めていた。10ヤード離れれば人の姿もまともに見えないほどの深い霧だった。しかも、一晩中、粉糖雨が降り注いでいた。すべては順調だったが、真夜中頃、歩哨の兵士から車輪の軋むような音がするとの報告が入った。砲弾や弾丸を積み降ろすような物音もしたということだった。しかし、当直士官はその報告を無視した」
シェル・ヒルの歩哨所は何が起こったのかも分からないうちにソイモノフ軍の斥候部隊によって制圧されてしまいました。続いて、霧の中から6000人のロシア軍歩兵部隊が襲いかかってきました。コリヴァンスキー連隊、エカチェリンブルク連隊、トムスキー連隊の前衛部隊でした。ロシア軍はシェル・ヒルの頂上に大砲を設置して英国軍を圧倒し始めました。歩哨所の指揮官だったヒュー・ローランズ大尉は部下を率いて隣の高地まで退却し、ミニエ銃で応戦するよう命令しましたが、弾薬が雨で濡れてしまったので銃は使い物になりませんでした。
数日前に落馬して負傷していたド・レイシー・エヴァンズ将軍に代わって、ジョン・ペネファザー将軍が第二歩兵師団の指揮を取っていました。ただし、ド・レイシー・エヴァンズも顧問の資格で司令部に詰めていました。ペネファザーは10月26日にド・レイシー・エヴァンズが採用した戦術とは異なる戦術に出ました。つまり、いったん退却してホーム・リッジの裏手に控える砲兵隊の射程内に敵を誘い込むのでがなく、前哨線に兵力を注ぎ込んでロシア軍の前進を阻止し、支援部隊の到着を待つという戦術でした。ペネファザーは第二師団の兵力がロシア軍の六分の一以下であることを知りませんでした。しかし、濃い霧のためにロシア軍側も英国軍の兵力上の劣勢に気づいていませんでした。
もし、ソイモノフが英国の脆弱な防衛態勢に気づいていれば、直ちにホーム・リッジへの強襲を命じていたはずです。しかし、濃い霧の中で敵情はまったく見えませんでした。英国軍はホームリッジから猛烈な勢いで砲撃してきました。さらに短距離から恐るべき正確さで撃ち込んでくる英国軍のミニエ銃に直面して、ソイモノフはホーム・リッジへの突撃開始を躊躇していました。結局、パブロフ軍の到着を待って突撃することになりました。ところが、その数分後に、ソイモノフ自身が狙撃されて戦死してしまいました。プリストヴォイトフ大佐が部隊の指揮を受け継いだが、そのプリストヴォイトフも数分後に被弾しました。次に指揮官となったウワジノフ・アレクサンドロフ大佐もすぐに撃たれて戦死してしまうと、その後は誰が指揮官なのか分からなくなってしまいました。進んで狙撃兵の標的になることを望む者はいませんでした。アンドリャーノフ大尉が司令部の将軍たちの指示を仰ぐために後方に派遣され、貴重な時間が浪費されました。
一方、パヴロフ将軍は午前5時頃にインケルマン橋に到着していました。しかし、ダンネンベルク司令官の命令で派遣されて来ていた海軍部隊は橋の補強を完了していませんでした。パヴロフ軍は橋の補強が完了するまで二時間近くも足止めされ、チョールナヤ川を渡ったのは午前7時でした。渡河したパヴロフ軍は分散して三方向からインケルマン山の稜線を目指しました。オホーツク、ヤクーツク、セレギンスクの三連隊と砲兵部隊の大半は右手のサッパー街道を登ってソイモノフ軍に合流することになり、ボロディンスキー連隊は中央のボロヴィア渓谷を登り、タルチンスキー連隊は採石場渓谷の岩だらけの急斜面を登ってサンドバック砲台を目指しました。このルートはソイモノフ軍の砲兵部隊によって掩護されているはずでした。
稜線上では、高地と高地の間で激しい砲撃戦が展開されていました。その間、両軍の歩兵の小集団が灌木の茂みに隠れて走り回り、互いに撃ち合っていました。戦闘が最も激しかったのはサンドバック砲台を守る英国軍の右翼付近でした。ロシア軍タルチンスキー連隊の前衛部隊は渡河から20分後にサンドバック砲台に到着し、英国軍の防衛線を突破しましたしかし、そこへアダムス准将の指揮する700人の英国歩兵部隊が駆けつけて反撃し、両軍入り乱れての激しい白兵戦になりました。その間、どちらかの軍がサンドバック砲台を奪い、また奪い返すという事態が繰り返されました。午前8時の段階で、アダムス軍の兵力はロシア軍の十分の一にすぎませんでした。しかし、サンドバック砲台をめぐる戦闘はごく狭い稜線上で展開されていたので、ロシア軍は数に物を言わせることができませんでした。英国軍はいったん砲台を取り戻しましたが、ロシア軍は諦めずに波状攻撃をしかけてきました。
やがて、ロシア軍の攻勢はそれ以上押しとどめることが困難なほど激しくなりました。ロシア兵が砲台の中になだれ込み、アダムス軍はホーム・リッジへの退却を余儀なくされました。しかし、まもなくケンブリッジ公の率いる第一近衛歩兵連隊から支援部隊が到着し、サンドバック砲台周辺のロシア軍を攻撃しました。両軍にとって、今や、サンドバック砲台は実質的な軍事的以上に象徴的な重要性を帯びるに至っていました。第一近衛歩兵連隊の兵士たちは銃剣を構え、ロシア軍に向かって突撃しました。
タルチンスキー連隊の兵士たちはフランス軍の太鼓の連打を聞いたような気がしたが、それは聞き違いではありませんでした。サプーン高地からホーム・リッジの戦闘を観察していた英国軍総司令官のラグラン卿は午前7時にフランス軍のボスケ将軍に対して緊急の支援要請を行ないました(ラグマンは、また、ロシア軍の砲撃に対抗するために包囲陣地から18ポンド砲二門をサプーン高地に運び上げる命令を下した。ただし、この命令の実行は困難を極めた)。
(つづく)
コメント
07月05日
19:51
1: ディジー@「本好きの下剋上」応援中
祝!再開!!
一進一退だったのが、泥沼になっきましたね。
指揮官が次々に戦死するのも異常です
打開の鍵はフランス軍が持っているのか?
次回も楽しみにしています!
07月05日
19:54
2: U96
>ディジー@「本好きの下剋上」応援中さん
ありがとうございます。
何とか再開のめどが立ちました。
ご心配をおかけしてごめんなさい。
07月05日
22:25
3: RSC
サンドバック砲台がサンドバッグみたいに激戦区になっているのですね。
後、旧式銃が実際に雨で使えないのは珍しいと思いました。信長の野望では始終悩まされたものですが・・・。
07月06日
03:21
4: U96
>RSCさん
はい。ミニエ銃は実包を使うので、雨でダメになるとはと驚きました。