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U96

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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2018年
06月01日
06:19

アメリカ南北戦争(その11)

 東部戦線でバーンサイドがポトマック流域軍で指揮をとったのは、わずか81日間でした。フレデリックスバーグでの大敗のあと、もう一度だけラパハノック川を渡って攻勢をかけようとしました。夜のうちに上流に向けて行軍し、リーの側面に回ろうとしたのです。最初のうちは順調でしたが、途中から雨が降り出しました。激しい冬の雨のため、土の道はぬかるみ、大砲は車軸まで沈み、へたをするとすっかり埋没してしまいそうでした。
 兵を鼓舞するため、バーンサイドはウィスキーの支給を許可しました。それによって士気は上がったものの、能率にはほとんど貢献しませんでした。南軍の警戒兵は、酔っぱらった北軍兵士が泥沼の中でもがき、時には任務を外れて乱闘するという光景に出くわしました。一昼夜にわたるぬかるみとの苦闘の末、バーンサイドは観念してファルマス近くの野営地への帰還を命じました。
 この悪名高い「泥中の行軍」は、何よりもまず、指揮官に対する兵の信頼をむしばみました。その結果、1863年1月25日、バーンサイドはジョーゼフ・フッカー少将(通称「ファイティング・ジョー」)に取って代わられることになりました。フッカーは、バーンサイドの短い任務中、批判勢力の急先鋒でした。指揮権を手にした今、フッカーが目指したのは、まず軍の戦意を回復すること、そしてバーンサイドのような正面攻撃の愚を避け、西に回って「ボビー・リー」の側面を突くことでした。
 晩冬から初春にかけてはフッカーは士気の改善に集中しました。効率的な情報システムを確立し、騎兵を再組織しました。フッカーがこうした努力にあまりに傾注しているように見えたため、リーはロングストリートに軍団の一部を預け、南北カロライナでの北軍の脅威に対するために送ることにしました。この決定によりリーの南軍は60000となりました。一方、フッカーの軍は増え続けており、リーの倍にまでになりました。それでもリーは、フレデレックスバーグにおける強固な防衛陣地があれば、数の上での劣勢は補えるものと信じていました。
 フッカーはまっすぐ川を渡って攻撃するつもりは全くなかったのです。フッカーの計画は、壮大な側面迂回運動をすることにより、リーにフレデリックスバーグの強固な陣地を放棄させ、市街の南ないし西において開けた地形での決戦に持ち込もうというものでした。フッカーは4月26日に行動を開始しました。まずはジョ-ジ・ストーンマン准将に騎兵をそっくり預けて派遣し、リーとリッチモンドの間の鉄道による連絡を寸断させ、南軍の騎兵を南方へおびき出させることにしました。それから歩兵まるまる三個軍団(全軍のほぼ半分)をファルマスから30km上流にあるケリーの浅瀬に向けて長大な行軍の途につかせました。
 残りの半分の軍勢があれば、南軍が川を渡って攻勢に出たとしても(リーがそんな愚策を試みるとは思えなかったが)撃退するにに十分だとの計算です。先発隊がよりフレデリックスバーグに近い浅瀬を「発見」すると、フッカーはその合衆国の浅瀬でさらに二個軍団を渡河させ先行部隊と合流させることにしました。四日後には、北軍の全七個軍団のうち五個軍団が街道辻の集落チャンセラーズヴィル周辺に集結しました。
 フッカーは「樹海(ウィルダネス)」として知られていた地域の密集した木立が北軍の動きを隠蔽してくれ、リーの不意を突けると思っていました。しかし、リーはスチュアートからの報告でフッカーの動きは逐一把握していました。スチュアートはストーンマンの南方への襲撃にはおびき出されなかったのです。
 リーは深刻な状況にあることを認識していました。とることの選択肢は四つありました。まずは退却。間違いなく、フッカーもそれを期待していたでしょう。フレデリックスバーグに留まり、残っている47000の北軍に対して何らかの行動をしかける。または軍を二分して二正面に対して戦う。あるいはフレデリックスバーグには少数の牽制部隊を残し、軍の大半を率いて西に向かい、フッカーと対峙する。
 この最後の選択肢は、リスクも大きかったが、成功した場合、決定的勝利となる可能性がありました。リーは暫時第二の選択肢も考えたが、結局、フレデリックスバーグにはジューバル・アーリー指揮のもと増強した一個師団を残し、残りの全軍を率いてチャンセラーズヴィルに向けて出発しました。
 チャンセラーズヴィルでは、フッカーは5月1日の午前中を陣地固めに費やし、午後になってようやく、麾下の五個軍団に、オレンジ・プランク街道、オレンジ・ターンパイクに沿って東んい向かう行動を開始させました。しかし、いくらも進まず、まだ樹海を出るのにも相当あるうちに、リーの軍の斥候に出くわしました。この瞬間、フッカーはたじろいだのです。先任の軍団司令官たちからの抗議にもかかわらず、開けた地に出るべく押し進む代わりに進撃を中止させ、チャンセラーズヴィル周辺の陣地に戻ってリーの攻撃を待ち受けることにしました。この決断によって戦いの主導権はリーの手に移りました。まもなく明らかになるように、それは重大な失策でした。
 フッカーが樹海の中で守勢に徹する決断をしたことで、リーは絶体絶命の危機を好機に変えるチャンスに恵まれました。数的には約半分と劣勢だったが、自軍をさらに二つに分け、ジャクソンに軍の過半数25000を預けてフッカーの右側面を迂回させる長大な行軍の途につかせました。戦場におけるリーの決断の中でも、こrては最も大胆なものでした。ジャクソンは優勢な敵軍の目の前を、道順も完全にはわかっていない細い林道を通って進まねばならず、残されたリーはわずか15000でフッカーのまるまる五個軍団を相手にしなければならないのでした。
 ジャクソンは5月2日の午前10時に行動を開始しました。行軍を始めてまもなく、灰服兵の隊列はキャサリンズ・ファーネス近くの開けた土地を渡らなければならず、ダニエル・シクルズ少将の第三軍団に発見されました。激しい局地戦になり、ジャクソンの後衛が一連の北軍の攻撃を食い止めました。
 当然のごとく、南軍の動きはすぐフッカーにも伝わりました。しかし、この北軍司令官は、この動きは南軍の退却を示すものであると解釈しました。この時点でフッカーが押していれば、リーの軍は間違いなく圧倒されていたことでしょう。しかし、事態が想定どおりに進んでいると信じていたフッカーは動かなかったのです。
 午後3時ごろ、ジャクソンの先発の旅団のいくつかがオレンジ・プランク街道を過ぎました。ジャクソンはこの街道沿いに攻撃に出ることも考えたのですが、もっと北から攻撃をしかけたほうが確実だと思い直しました。危険な運試しであることは自分でも意識していたが、信心深いジャクソンは、どのみち運より宿命を信じるたちでした。ジャクソンの決断は、そのまま南進し、オレンジ・ターンパイクから突撃するというものでした。
 午後5時、オリヴァー・O・ハワード少将の大部分ドイツ人からなる第十一軍団は樹海教会のまわりの空き地でキャンプファイヤーを囲んで夕食の用意をしていました。通行不能と思われていた西方の森から、らっぱの音が聞こえました。鹿や兎といった動物が何十も森から飛び出しました。それらを隠れ家から追い立てたのは、25000の軍隊の進軍でした。それから、甲高い不気味な「反乱軍の雄叫び」が北軍兵士の耳に届き、兵たちは急遽、近くにきちんと組んで立ててあったライフルを手に取ったのです。
 時すでに遅し。ジャクソンの兵は、北軍が戦列を組む前に襲いかかったのです。パニックは伝染し、ハワードの軍団は南軍による殺戮の前に雲散霧消しました。ジャクソンは兵たちの間を馬で回り、「押せ!押すんだ!」と叫んで駆り立てました。北軍は一目散に退却し、気が付くとスクルズの兵にも敵がなだれを打って押し寄せてきており、包囲される危険がありました。午後8時ごろになってようやく、北軍は第二の防衛線を形成することに成功しました。
 すでに一時間前に日は暮れていました。(日没は午後6時48分)が、満月に近い月夜のため、夜間の行動がどうにか可能でした。北軍が最初の衝撃から立ち直る前になんとかして決定的な勝利を上げようと焦るジャクソンは、幕僚の先頭に立って、連邦軍の突出した部隊を本隊から分断するのに使えそうな間道を調べに馬を進めました。
 この偵察から戻る際、南軍の警戒兵が木立の中の騎馬の一団に向かって発砲したのです。まばらな一斉射撃が響き、ジャクソンは左腕と右手に銃弾を受けたのです。傷は痛んだが、命の危険があるようには見えませんでした。それでも、第二軍団の指揮はまずA・P・ヒルに、そしてヒルが砲弾の破片で負傷するとジェブ・スチュアートに引き継がれました。しかし、ジャクソンのやろうとした夜襲は見送られました。戦闘は、森の中での個別の局地戦となって静まりました。
 翌朝、フッカーは兵を引き、ラパハノック川の合衆国の浅瀬を経由した連絡線を守る弧状の防衛陣形を取りました。
 正午になって両陣営に新たな報せがもたらされました。フレデリックスバーグを見下ろす高地でリーが残したアーリーの師団がセジウィックの軍団に圧倒され、セジウィックが東からチャンセラーズヴィルに向かって進軍中とのことでした。
 リーは、スチュアートをフッカーの監視に残し、セジウィックに対処すべくフレデリックスバーグ方面に軍を戻しました。両軍は5月4日にセーレム教会の戦いにおいて遭遇しました。この戦闘での勝敗ははっきりしなかったが、セジウィックはその晩、ラパハノック川の対岸に後退することを選びました。
 その同じ夜、フッカーもまた、川を渡って撤退することを決めました。ラパハノック川の南岸における北軍の攻勢は再度失敗に終わりました。南軍の死傷者13000に対し、北軍の死傷者は15800を数えました。しかし、より重要なことは、北軍はわずか半分の兵力の南軍に手ひどく翻弄されたということでした。決定的な瞬間、瞬間に、リーは大胆さを示しました。フッカーは出だしはよかったものの、勢いを失い、主導権をも手放して「ファイティング・ジョー」とのニックネームにもとる戦いぶりでした。
 しかし勝利した南軍の代償も大きかったのです。「石壁のジャクソン」は、左腕の切断後一時的に回復の兆しを見せたものの、感染症から発熱し、肺梗塞を起こして5月10日に死にました。最後の言葉は「川を渡って木陰で休もう」だったそうです。
(つづく)

コメント

2018年
06月01日
17:49

1: RSC

南軍の要であった名将ジャクソンの最期は、有能な前線指揮官にしばしば共通するものですね・・・。

フッカーはダイナミックな構想なの元に兵を進めましたが、必要以上に損害を恐れる相反した行動も見せています。これは何とか立て直した軍が再び自然崩壊へ向かうのを恐れていたからでしょうか。

2018年
06月01日
18:14

2: U96

>RSCさん
あっけないですね。まるで映画みたいですね。

フッカーは兵の士気を維持するのに苦心しております。例えば、野営地に売春婦が出入りするのを許したりして。

2018年
06月01日
19:18

なんだかずっと北軍が負けてるような印象が・・・。

南北戦争のとき俗に言う”インディアン”はかかわってたのでしょうか?

2018年
06月01日
21:25

4: U96

>櫻 弾基地さん
西部は狙っていたのですが、中立州だったのですよ。ゲームの世界では南北戦争がインディアン自治州まで波及したらというものもあります。このまま南部は経済封鎖でジリ貧になっていくままなので、実は進出すべきだったのですがね。あっ!ケンタッキーは中立を侵して両軍とも進出していました。