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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2018年
05月30日
05:32

アメリカ南北戦争(その9)

 アンティータムの戦いの後、マクレランは命じられた南部への進撃を拒否。しかし再度一冬を無為に過ごす事は、政治的に許容出来なかったのです。リンカンはマクレランを解任し、マクレランは二度と復職する事はありませんでした。新しく司令官に任命されたのはアンティータムの戦いで名をあげたバーンサイドでした。しかし司令官の任はバーンサイドの手には余るものだったのです。
 バーンサイドは120000の兵力でリッチモンドへ向けて進軍し、その中間点でリーの75000の兵力とぶつかりました。1862年12月13日の事でした。このフレデリックスバーグの戦いは北軍が113000の兵力で南軍を攻撃したが、正気を疑わせるほどの愚かさをもってバーンサイドは林の中から側面攻撃を拒み、正面攻撃をしかけたのです。北軍兵士の二列横隊が、さえぎるもの一つない平原を横切って突進すること6度、南軍の砲兵と6段構えの銃火の前に戦場はまさに悲惨の一言となりました。高台から見ていたリーは言いました。「戦争がかようにむごたらしいのは結構。戦争を好む輩が多すぎる」。
 北軍の死傷者12653、南軍の死傷者5309。この日の戦闘の結果を評価して、連邦の新聞のある通信員は読者にこう報告しました。「兵たちの勇猛さは、人間の性質上これ以上はないと思われるものであった。そして将軍の判断力は、これ以下はないと思われるものであった」。12月15日、両軍は死者を葬り、戦闘に生き残った負傷兵を交替させる為の短い休戦に同意しました。リンカンは一人の友人に「我々はいまや破滅の一歩手前だ」ともらしました。
(つづく)

コメント

2018年
05月30日
19:41

>バーンサイドは林の中から側面攻撃を拒み、正面攻撃をしかけたのです。

あーかける言葉もございませんw
中学生でももう少しましな事考えるでしょう。
もしかしてこの人南軍の味方では?

2018年
05月30日
20:05

2: U96

>櫻 弾基地さん
ナポレオン戦争の頃と違って、銃火器の性能も上がっていたので、この突撃は自殺行為だったのです。

バーンサイドにはあと一回、南軍と戦うチャンスが来ます。それがチャンセラーズヴィルの戦いです。

2018年
05月30日
20:39

3: RSC

確か最初にマクレランが更迭された時もあまり手腕の良くない人が後任についた記憶がありますが、北軍は上級将校にあまり人材がいなかった様に思えます。

2018年
05月30日
21:46

4: U96

>RSCさん
はい。その通りです。次の司令官はジョーゼフ・フッカー少将ですが、見栄っ張りで自己主張が強いが、肝心な時に気後れしました。公式連絡の句読点の誤りから、「奮闘中(ファイティング)・ジョー、フッカー」と書かれ、「ファイティング・ジョー」のあだ名で呼ばれるようになりました。常識のある司令官は、ジョージ・ゴードン・ミード少将の就任を待たなければなりませんでした。ついでながら、戦争勃発時、両軍とも深刻な士官不足でした。対策として取られたのが、士官を選挙で選ぶことです。あの人は人望があるから、兵をまとめることができるだろうで就任しました。そして前線で生き残ると昇進してりっぱな指揮ができるようになるのです。これは独ソ戦のソ連軍も生き残った士官が昇進して、りっぱに指揮できるようになったのと同じです。