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U96さんの日記

(Web全体に公開)

2018年
05月25日
05:26

アメリカ南北戦争(その6)

 1862年に入って海上封鎖はようやく効果を持ち始めました。南軍は艦船の絶対量でも劣勢で、数の劣勢を補う為に甲鉄艦メリマックを建造。だがこの情報を入手した北軍の方でも甲鉄艦モニターを建造していたのです。
 1862年3月8日、ヴァージニア州南東端の天然の錨地ハンプトン・ローズでメリマックは北軍の木造艦を次々と血祭にあげていたが、翌日、北軍のモニターと戦闘になりました。史上初の甲鉄艦同士の戦いです。戦術的には引き分けに終わったが、メリマックの自由な行動を妨げた事によって、北軍にとっては続く半島作戦が可能になりました。
 4月25日には、ミシシピィ河口の南部第二の都市ニューオリンズが北軍艦隊の手に落ちました。続けて艦隊はミシシピィ河を遡って封鎖を完璧なものにしようとしました。結節点であるヴィックスバーグは1863年7月4日まで落ちなかったのですが、それまでに北軍はじわじわと南部への封鎖を固く締めあげていったのです。
 東部戦線では、3月末にいよいよマクレランが110000の軍勢をもって南部の首都リッチモンドへの攻勢を開始しました。ただしそれは、陸上で真正面からリッチモンドをつくというものではなく、海路リッチモンド南東のヨーク半島に上陸し、そこから北西へ進撃しようというものでした。対する南軍は65000、指揮するのは名将ジョセフ・ジョンストン。
 しかしむしろ危機に瀕したのは北部の首都ワシントンの方でした。マクレランが度を越した慎重さでのろのろと行動している間に、南軍のストーンウォール・ジャクソン将軍がワシントンの西側のシェナンドー渓谷を縦横無尽に駆け回り、続けざまに4度の戦勝(5月8日~6月9日)を得て北軍に首都防衛を余儀なくさせ、戦史に不滅の名を残したのです。
 しかしヨーク半島ではさすがの兵力差で5月末までにマクレランがリッチモンドまで10数kmのところまで進撃し、負傷したジョセフ・ジョンストン将軍に代わってリー将軍が指揮を引き継ぎました。だがマクレランは南軍の兵力を過大に誤認し、要害の地を占めたのち好天を待って進撃しようと考え、それから一ヶ月かかって数kmしか前進していませんでした。
 6月26日、シェナンドー渓谷からジャクソン将軍がリー将軍のもとに合流し、リー将軍は先手を打って反撃を開始しました。7月1日まで続く「七日間の戦い」です。マクレランは巧妙に防戦し、自軍が受けた損害以上の損害を南軍に与えたが、撤退は余儀なくされました。結局マクレランは、リッチモンドまであと7kmの地点にまで迫りながら、8月にはヨーク半島から完全に撤退したのです。
(つづく)

コメント

2018年
05月25日
18:56

メリマック対モニターの戦いこれだけでも映画に出来そうですね。

2018年
05月25日
19:03

2: U96

>櫻 弾基地さん
はい。確かこれ以降、低乾舷で、大型の砲を装備した沿岸型の軍艦をモニター艦と呼ぶのでしたね。

2018年
05月25日
20:09

3: RSC

そろそろロバート・グールド・ショーの「黒人連隊」第54マサチューセッツ歩兵連隊が編成される頃でしょうか。

2018年
05月25日
20:38

4: U96

>RSCさん
1862年の後半なので、そろそろですね。映画「グローリー」はレンタルで見ました。どうやら映画「ゲティスバーク」のDVD、ツタヤで取り寄せができるようですね。