6月26日、リンカンはマクダウェル将軍に対して、首都ワシントンの南西48kmのマナサス駅周辺に集結している南軍のボーリガード将軍麾下の軍22000を攻撃し、その後続けてリッチモンドへ進撃するよう命令。7月16日、マクダウェル将軍率いる北軍30000の兵が、マナサス駅へ向けて出発しました。北軍のうしろには、連邦軍が反乱軍を破るのを見ようと、乗馬、徒歩の見物人や着飾った夫人連れでピクニックのバスケットを持って馬車の乗り込んだ議員などが付き従っていました。
7月21日にそれらの観衆の前で決戦が行われました(第1次ブル・ランの戦い、または第1次マナサスの戦い)が、両軍の兵士・将軍たちとも戦闘に慣れておらず、それどころか両軍の軍旗・軍服までもまちまちで区別がよくつけられなかったので、まったくの大混乱が起こりました。両軍とも夢中で数時間戦闘が続けられ、そのうち北軍の隊列が退却をはじめました。それはすぐさま大壊走となりました。兵士たちは我先にワシントンへ逃げ帰り、南軍がワシントンを目指して猛追劇を行っているだのの流言飛語が飛び交いました。
南軍が勝つことができたのは、この戦いで固い守備で「ストーンウォール(石の壁)」とあだ名されたジャクソン将軍の働きと、ジョセフ・ジョンストン将軍が首尾良く鉄道で増援部隊を送り込んだからでした。しかし実態としては、むしろ負けた北軍よりも勝った南軍の方が混乱していたのです。ワシントンへの追撃などは、不可能な事でした。
この戦いで北部人は奮起して、長期戦の準備にとりかかりました。リンカンはブル・ランの敗戦の4日後に、ヴァージニア西部の作戦に成功して一躍国民的人気を得ていたマクレラン将軍に連邦軍立て直しの任を与え、多数の長期志願兵、大量の資金と装備を供給しました。彼は軍隊の訓練と組織化に長けた、軍隊強化にうってつけの人物でした。
南部の方はと言えば、何もしなかったのです。南部の基本方針が、北軍を撃退する事によって諸外国は南部の独立承認が得られるだろうというもので、それに、軍事的にも混乱が大きく北部への侵攻は現実的ではありませんでした。
ブル・ランの戦いから数ヶ月がたち、マクレランは11月1日にはスコット将軍の辞任によって、総司令官に任命されました。しかしマクレランには、敵の兵数を絶えず過大に見積もり、自軍に恐ろしく潤沢な兵員・装備がなければ動こうとしないという欠点があり、南部侵攻の要請があっても重い腰をあげようとしませんでした。リンカンもしびれを切らして大統領令により2月22日の総攻撃を一方的に要求するほどでしたが、マクレランがようやく行動を起こしたのは、1862年の3月の事でした。
(つづく)
コメント
05月23日
20:16
1: 黄金バット
>両軍の軍旗・軍服までもまちまちで区別がよくつけられなかった
これはまたひどい話ですね、とりあえず眉毛赤くぬりましょうw
05月23日
20:25
2: U96
>櫻 弾基地さん
特に南軍兵士は軍服など装備は自弁だったのです。そのちち海上封鎖で買いたくとも買えなくなります。封鎖突破船勤務という商売も出始めます。
05月23日
20:31
3: RSC
明治政府が函館政府を圧倒した要因の一つ、装甲艦「東艦」の旧名がストーンウォールで、ストーンウォール将軍由来の艦名だそうです。
05月23日
21:17
4: U96
>RSCさん
ありがとうございました。シェナンドー渓谷の戦役で4度の勝利をあげたジャクソンもチャンセラーズヴィルの戦いで味方の誤射を受けてしまいます。リーは徹夜で神に祈りましたが、肺梗塞を起こして死亡してしまいました。最後の言葉は「川を渡って、木陰で休もう」だったそうです。捕虜を紳士的に扱ったので、北軍兵士もその死に涙したそうです。