宍戸オートバイ製作所は、大正8年に設立した広島の宍戸鉄工所がオートバイの製作を目指して大正13年に改名した会社です。大正13年のトライアンフの修理・販売を経て、大正13年6月には自社の1号機を完成させています。
これと同型のオートバイは1年ほどの間に7台販売されました。
昭和2年10月、自動車学校より側車付きバイク2台の発注を受け、11月に完成し、自動車研究所にて運行試験を実施しましたが「兵器としての採用の価値なきものと認む」と判定されてしまいました。
しかし、宍戸オートバイ製作所は市販バイクの製造を昭和2年に33台、3年には88台を市販しました。この様な実績から陸軍省から商工省に宍戸オートバイ製作所に対する研究奨励の希望が出され、認可されて1万円が交付されました。
この様な経緯の中、昭和5年1月、宍戸オートバイ製作所は陸軍自動車学校から路外用側車附自動二輪車の試作を命ぜられるとともに、昭和4年に自動車学校研究部が入手していたOEC直列三輪バイクが貸与されました。
このバイクは路外専用として開発された物で後2輪が起動し、それにキャタピラーが装着できる構造でした。当時世界各国で研究中であったと言われています。
昭和5年6月にVツイン1200ccエンジンで、OEC直列三輪バイクの後輪2輪をダブルタイヤとして5輪(側車の1輪を加え全体で6輪)にした路外用側車の試作車輌が完成し、納入されました。試作機は昭和6年3月の購買記録から3台以上あったと思われます。この時初めて陸軍の公式文書に宍戸製のオートバイがSSD型という記載で現れております。
この側車は量産され、陸軍による試験が完了する前の昭和7年に19輌、昭和8年に5輌の計24輌が宍戸オートバイ製作所から調達されました。
当時、陸軍は満州事変で発生した予想外の支出は余裕を持って認められ、潤沢にその予算が転用できたからその影響もあって、予算が使える内に取りあえず発注されたのかもしれません。この購買予算は満州事変費から出されています。
またこの内数なのか別に車体を製造したのかは不明ですが献納兵器の「愛国号」も存在しました。
陸軍は昭和8年の自動車学校研究部の試験に引き続き野戦砲兵学校でも試験を実施しました。既に量産機が24台も発注されていたのだから、試験は成功すると確信しており、名称も試製92式路外用側車附自動二輪車と呼ばれていましたが、制式には持ち込めなかったのです。
制動機の作用不完全で振動時作動しないことが多く、縷々(るる)危険を呈するため改正を要すると判定され、かつ他にも不備の点数カ所有りと判定されてしまったのです。ブレーキがまともに効かないという致命的不具合は路外用側車附自動二輪車の計画自体を崩壊させました。
自動車学校研究部で試験した7台は、いずれかの車輛の後方起動輪が毎日パンクし、かつ同一車輛が1日6回もパンクしたことも有り、修理には早いもので30分、長い場合で2時間半を要し、路外性は6輪自動貨車より優れるものの、実用にならないとされました。
昭和7年から8年にかけて調達された24輌は、満州で各地の討伐、警備に使われた後、戦車第一連隊、戦車第二連隊、戦車第三連隊に4~5輌ずつ支給され、陸軍歩兵学校、陸軍野戦砲兵学校にも教育用として支給されました。しかし不具合が頻発した試作機をそのまま量産した車体であり、量産機もやはり故障が多すぎるとして、昭和10年に、部隊、学校側から他の側車附自動二輪車に交換や返品させてほしいとの要望が一斉に出され、希望通りになってしまいました。