「栄」系エンジンで1100hpを1400~1500hpに高めるためブースト圧や回転数の上昇、吸入効率の向上、燃焼の改善などの検討や予備実験などが始まりました。
昭和14年の暮れ、「栄」と同じ外径でこれを9気筒の2列にするようなエンジンが出来ないかという発案があり、検討が始まりました。まず9気筒を作り、これを前後列思い切って離して前後列のシリンダーの干渉をなくし、その上で冷却風通路(後列への入口と前列からの出口)及び特に前列への吸排気管のアレンジ、前列後側の点火栓の位置及び整備性を考えた設計をしてみました。このようなアレンジの場合に多少のスペースの余裕を持ちながら段々に各部について9シリンダーとして配置してみると、NAMより外径を30mm大きくするだけでよいことが分かりました。一方、前後列の中心距離はNAMの150mmに対し50mmのばせば充分のようでしたが、余裕をとるとすればこの方向で整備、組立てなどの点で必要なので70mmのばすことに定められました。
なおクランク室は鋼製のケースを使いました。スペースの節約、剛性の向上に大きな貢献をしましたが、このような大きくて薄い鍛造品からの削り出しは経験がないので、なかなか引受け先がなかったのですが、住友金属工業(株)の協力が得られました。更に点火系統を発電機とディストリビューターを後部と前部の減速装置とに離して電線の合理化をはかりましたが、これも横河電機(株)の緊密な協力によるものでした。
容積は36lで出力は1800hp、やがて2000hpに向上することとしました。このアイデアを昭和15年はじめ海軍に提出し、官民をあげてこの試作を支援することとなりました。
昭和15年9月15日に試作命令が出て、以下の予定を厳守することになりました。機械工事完成 昭和16年2月15日、組立て完成 同年3月15日、第一次運転及び性能運転完了 同年3月31日、第一次耐久運転完了 同年6月末日。
300時間の第一次耐久試験を終了後、性能は離昇馬力で1800hp/3000rpm、給気圧350mmHgでしたが20型で2000hp/3000rpm、給気圧500mmHgとなりました。前面面積と離昇出力の関係で世界水準をぬいていました。
機体には海軍では海軍設計の銀河、中島の彩雲、天雷、連山、川西の紫電改、愛知の流星、三菱の烈風、陸軍では中島の疾風などに搭載されることになりましたが、三菱は烈風にこのエンジンを載せることを拒否し、自社開発のMK9Aを搭載しました。
「誉」エンジンは昭和18年から終戦までに約9000台が生産されました。
昭和16年、戦争に突入する頃からしだいに誉エンジンの様子が変わってきました。燃料のオクタン価が100から91~88で運用するよう指示があり、シリンダー温度の異常過昇が始まりました。ガソリンに加えた水とメタノール(特にエタノール)の噴射方式の改善等と天火栓の熱価の向上、燃料分配の向上対策などでかろうじて防ぎました。シリンダーにアルミ鈑のひれを鋳込んで理想的な冷却方式とする、いわゆる鋳込ひれシリンダーを生産することに成功しましたが、生産性が悪いなどの問題もあり、後に住友金属社の金型方式(ブルノー式)により5mmという細かいピッチの鋳物方式にきりかえました。
主接合棒軸受のケルメットの故障もしばしば起こりはじめました。エンジンオイルが悪くなったこともあったかもしれません。もともとNAMに比べて30%くらい軸受荷重が高く、300kg/C㎡でした。故障に際しては海軍のT監督官、A技師、中島のW技師などの昼夜を分かたぬ努力で、軸受材の組織をはじめ表面の鉛メッキ、両端の仕上げ、さらにクランクピンの仕上げ精度の向上(ポリッシュ)などにより、よやく解決の方向に向いました。また、ファルマン減速の傘歯車の推力軸受の平軸受の熱損の大きな問題でしたが、ケルメットの鉛のパーセントを20から30に変更することでしのぎました。
ある試作機が高度をとると油圧低下を起こすことが発生しました。油の循環量が主接合棒受対策や2速過給器のスラッジ対策、などで大幅に増したのでポンプの容量を30%ほど増してありました。タンクからポンプまでの吸入側のパイプまでの吸入側のパイプが細く長いために、高度が上がって気圧が低下するとポンプの入口の圧が下がり油圧が低下することが分かり、この系統を改造して解決しました。
一時、各種の試作機から出力が出ていないのではないかとの指摘がありました。調査の結果、シリンダーの吸入排気ポートをはじめ、主として給気系の通路の鋳物の形が原型と違っているものが多く、これをもとにもどして出力が回復しました。
こうして生産にこぎつけました。紫電改、疾風の戦闘機、銀河の長距離爆撃機、彩雲の高速偵察機などに搭載されました。しかしながら昭和19年の後半でした(終戦は昭和20年の8月15日)。
戦後、アメリカ軍によって100オクタン価のガソリンと高性能のエンジンオイルで試験がおこなわれた機種は十分な性能が出たと報ぜられ、遅すぎたエンジンと言われました。
しかしながら、私はこう思います。紫電改は元々、日本で最も大型だった火星エンジンを搭載した水上機、強風から生まれた戦闘機です。機体自体が充分大型です。しかも巨大スピナーによって、雷電のようなプロペラ軸延長よる振動問題も起こっておりません。零戦の栄エンジンはチューニングすると、1400~1500馬力出たそうです。既存の火星エンジンをチューニングするのではいけなかったのでしょうか?
https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17193916
なお、紫電改の最終型は烈風搭載のエンジン、MK9になる予定だったそうです。
それにしても、兵頭に二十八氏が「誰だ!エンジンは直径1メートル以下でないといかんと決めたのは?」と言っております。やはり、果たせなかった火星エンジンの18気筒化を考えてしまいます。
コメント
10月21日
19:49
1: RSC
素人考えですが、艦船搭載をまだ諦めていなかったせいで小型にこだわったのかも知れません。
10月21日
20:10
2: U96
>RSCさん
昭和14年に計画が始まったことを鑑みて、それはあり得る話だと思います。ありがとうございます。